ワケわからん事言う
今朝の寝起き6:20頃の想念。
とは言え時間感覚的には五秒程度。
(文字数:約700文字
後ほど考察入れて約1200文字)
完全無欠な私が常に、
私の頭上2、3メートル辺りの所に浮かんでいる。
♪あなた動機が不純なぁんだわぁ〜
と、
「完全無欠」
という言葉からの連想に引きずられて、
山口百恵さんの『ロックンロール・ウィドウ』が、
脳内の一部に流れ出したが、
それは置いといて、
人によってはキリストと呼び、
仏と呼ぶやもしれんが、
何の事は無い。
どこまでもただ自分の完成形よ。
とこれもまた脳内の一部から、
クロコ、と言うよりシロエさんの、
高らかに嘲笑う声がする。
目で見た感覚で受け止め、
言葉で捉えようとしている時点で、
私自身は完成形からは程遠いのだが、
実はこの、
人それぞれに異なる距離こそが大事、
らしく、
生きている間には、
より厳密に表現するなら、
身体を有している間には、
到達する事が出来ない、
と言うより、
到達してはならない、
完成形であるようだ。
完成形に戻りたいが故に、
自ら身体を捨てようとする者も、
技術でもってそれに代えようとする者も、
現れるのだが、
身体に結び付いて在る事が重要であり、
技術はどこまで行っても模倣に過ぎない。
もしも統括している者がいて、
その存在を神とでも呼ぶならば、
神は人それぞれの身体という物質を、
単に愛でているに相違ないな。
愛しているかは別として。
私は生まれながらにして、
完全体に割と近い者だったようで、
十歳以前の地獄の2年間が、
更にその距離を縮めたようではあるが、
だからって別に偉くもないし、
修行すれば近づくものでもない。
単に平均より近め、
ただそれだけ。
身体に結び付いて在る以上、
個々が重要ではあるのだが、
実は完全体同士が交流し合っているので、
孤独になりようもない。
みたいな事を、
感じ取った気がするので記録。
14:30頃の考察(ただしかなり眠い):
んだから身体性を楽しめる人は、
思いっきり身体楽しんじゃえばいいし、
身体性とか物質的なものに、
そこまで意識が向いていない人は、
完全体から受け取れる何かしら
(目に見えず言葉にも変えられぬ)を、
享受してけばいいわけよ。
実際に人一人分の身体だけでは、
得られないはずの経験に感覚が、
蓄積データとして流入するからね。
どちら側が強くても基本的に等価。
しかしながらいくらデータが流入しても、
私自身は何も経験しておらず、
どうにか文章での表出を試みても、
現実においての行動は存在していないわけだから、
物質を優位とする社会では軽んじられがちね。
完全体寄りな側はそう気にするな、ってのと、
身体性寄りな側はそう軽んじるな、ってのが、
トータルで気をつけといた方がいいことかしら。
何にせよどちらかが皆無な存在もいないので。
完全体寄りな側が身体性を見下すのも、
それも結構な上から目線で見下すのも、
いかがなものかと常々思っているので。