【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ七(4/4)
明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。
(文字数:約5000文字)
もちろん本来の仕来りを言えば、花魁は茶屋に「呼び出す」ものだ。
張った宴席にひとしきりの花を添えて、馴染みの花魁の教養に見識の高さを、仲間内にも存分に自慢し尽くして、その上で更に懐にも体力にも余裕があれば、置き屋に赴くのだがそれだって徒歩ではない。高下駄を履く花魁のために当然、船か人力車を手配する。
花魁の方も呼び出しがある都度、相手をしていては身が持たない。身を損なわないのも器量のうちだと、江戸の頃から解されている。
置き屋に直接足を向けるような客筋なんか、本来花魁の目の端に、映り込む事すら有り得ない。そこを心得た上でのお互いが、「遊戯」である事を、店の側にも承知してもらえていたのは、今や国の保護がなくなったからで、何のかの言って端金呼ばわりしつつも、目の前に差し出される金は有難いからだ。
国の基幹産業から、犯罪ギリギリへの大凋落だ。いつまた何時「解放」させられるかも分かりやしない中で、国家から目を付けられかねない振る舞いに及んだような奴が、相当に迷惑である事も分かり切っている。
最後に話がしたいという、一縷の望みも捨て切れてはいなかったが、楠原としては跳ね付けられ恥をかかされる形で、きっぱり誰の目にも明らかに、出入り禁止になるつもりでいたのだが、
「お銚子、私が入れたわよ。廻し部屋なんかでろくな話、出来やしないから」
部屋に通してくれたとは言え、後に続いた楠原には顔を向けず、静葉の色味は怒り散らしている。
「女将さんからだって睨まれて、煩わしいんだけど。もう貴方なんて本当に、私にだって何の足しにもならない」
ごめん。
と真っ先に口にすべき事態であり、口にしたいとも思っていたけれど、楠原には、先日自分が何をしでかしたのかが分からない。
理由も分からずに謝れない、じゃなくて、被害を受けた側酷い目に遭っただろう側からしたら、「覚えてない」とか知ったこっちゃねぇ。「忘れた」程度ならともかく、「(厭過ぎて脳内で叫び潰した)」なんて聞こえて来ようもんなら、俺だったら許せねぇ。あの野郎ギッタギタに叩き潰して、なますにでもしねぇ限りこんな怒り収まるもんか、
って俺、いつの誰の事思って今言ってんだ?
そう思い返した頭に、浮かんできたのは、暗がりの中を物陰に押し込められていた春駒で、色味もかすかなぐったりした全裸で、込み上げてきた吐き気を反射的に吹き払ったら、
「へはっ」
と嫌な笑い声が出た。この状況ではいかにもマズイ。振り向いてきた静葉の目が冷たくなる。口元を押さえて勿論すぐに、笑いやめたいのだが、脳髄の奥から湧いてくるような、自分を嘲笑う苦笑が止まらない。
「あんたとかは……、はは。まだ良いだろうよ」
「何?」
「その……、ふふふ何て言うか、ほら……」
実際に、見聞きした物をそのままでは、口に出せない。せめて系統が似通った辺りを、見付け出したが、
「女工、とかと比べたらさ……」
「女工」
その一語だけを繰り返した色味は、怒りを帯びながらも冷え切ってくる。
「彼女たちと、私たちの一体何を見比べて、言える事があるの?」
「恵まれてるだろって、言ってんだ。まだ……」
善くない。すごく善くない聞こえ方になっている事くらい、口に出しながら分かっている。
「自分の部屋持てて、良い酒とか肴とか、食わせてもらえて……、綺麗な着物にあったかい布団なんかも、用意してもらえてさ……。あっちは、何だ。もっと、全然安い給金で、働き通しで身体とか、壊してるってのに……」
「ふざけた事を言わないで……!」
うん。
殴られてはいないのに、足元がふらついて、戸口脇の柱に背をもたせる感じに滑り落ちてそのまま、畳に座った。逃げられる、みたいに感じたらしい静葉も目の前に、座り込んで間近に寄せた涙目で睨んでくる。
「良いお酒にお肴が、何だって言うの。そんなものが欲しいのなら、好きなだけ貴方のお顔に叩きつけて差し上げるわ」
うん。
「私たちの方こそ、女工になりたくって仕方がないのよ。もしかしてあの子たちの方で、私たちみたいになりたい、なんて思う子がいたら、馬鹿な事は考えないで、およしなさい、って言ってあげたいわ」
うん。
「私たちは、縛られているの。血を流しているのよ胸の奥では! 顔では笑って着飾って、旦那様相手に毎日毎晩、しなを作って媚を売って見せながらね!」
うん、と聞こえてきそうな頷きをただ繰り返す楠原に、静葉の方では張り合いを感じず、むしろ適当に受け流されている気がしたらしい。
「田嶋屋の、静葉が何よ。私は自分に戻りたいわ。自分が生まれた家に帰って、自分の本当の名前をこそ呼んでもらいたいわ! だけど……、こんな店に連れて来られて、こんな人間にまでなってしまった。今更誰が私を、前みたいに扱ってくれるって言うの!」
言葉に変え声に出したそばから、あふれ出てくる涙を、こんな男に見せるのが惜しいとでも言うかのように、押し拭い続けている。泣かせている張本人のはずなのだが楠原は、戸惑った様子で、「泣くなよ」とでも言いたげに静葉の頬に、手を伸ばしたが、
「貴方こそ何よ。私たちを馬鹿に出来るほどの、何様になったつもり?」
ひと通り拭い終えた静葉から、キッと睨み据えられて引っ込めた。
「ちょっと前まではまだ世慣れてない、可愛らしい感じの書生さんだったのに、女工の話なんか持ち出すくらいだから、ちょっとは小利口になってきたんでしょうけれど、その分擦れて厭らしくなって……、貴方こそこれまでに、一体何をしてきたの? 性根が腐ってきただけじゃないの!」
「ごめん」
落ち着いた声色で差し込まれ、思いがけなかった様子で静葉の方が少し、身を引いた。
「本当に。その、言われた通り。腐ってんだ今の俺。うん」
腹を立てず黒目も潤んでいない、落ち着き払った顔を両手で覆っていく。静葉の方が次にどう出てくるのか見通せず、少し身を離した位置に、所在無げに腰を落とした。
両手が放されて現れた表情に、ホッとした肩をゆるめる。
「怖い目に、遭わせたよな。こないだは」
「ええ。そうね」
「俺、その……、何を、どこまでやった?」
「え?」
「ん?」
「してないわよ? 何も。具体的な事は」
それを聞くなり楠原の全身からは、溶け出して背中側の柱にのめり込みそうなほどに、力が抜けた。
「よかった……」
一旦のけぞった頭を柱にぶつけて、「いて」と、うつむけて右の手の内に埋めている。
「店に入った時から様子がおかしいって、若い子達が近くで控えていてくれてたもの。声を上げたらすぐ止めに入れるように」
「良かった。本当に。そりゃ、助かった物凄く、有難い」
ぐにゃふにゃとそのまま畳の上に、倒れ掛かりそうになったところを立て直して、右手でこすった顔をどうにか、造り直している。その様子を見ながら静葉の方では心付いて、
「もしかして何も覚えてないの?」
と顔に出た驚きを、声色の方では控えめにして訊ねたのだが、
「うん……。言われた通り俺、呑み過ぎたみたいで……」
楠原の方ではようやく顔を上げて、いつものようなへらっとした笑みを作って見せるところだ。
「そんなに酔ってもいなかったわ」
静葉も合わせてしれっとした風を取り繕ってみせる。
「前から、あったの? そういう事」
「無いよ」
と口にしてすぐ、「いや」と、目線をななめ上に向けて思い返す。
「言っちゃいけない事わざわざ、言っちゃいけないなって時に、口にしたり……、利き手がたまに、ってかまれに、俺が頭で思ってるのとは違う動きしたり……」
「『おばさんに会いに行ってきた』って話してた」
「え」
「『ちっちゃな頃に自分の家で、一緒に暮らしてたおばさん』で、『懐かしかったし楽しかった』って」
聞かされたその時のような調子で、静葉はあえて微笑みながら、繰り返してみせたので、
「ああ……」
と思い返す楠原は、まだ気を落ち着け切れているようだ。
「そこからちょっと……、話が、おかしな方向に変わっていって……、詳しいところまでは良く分からなかったけど」
楠原の膝に手を乗せて、向けられた目を見合わせる。
「何が、あったの?」
一旦、目を逸らしたが楠原は、また見詰め返して、
「話せない」
と答えた。
そしてすぐにまた右の手で、顔をこすったり茶色っぽい髪を掻き回したり、
「今は。うん。気持ちの整理とか、先に片付けなきゃならない事なんかが、色々とあって……、だけど」
一通り、整えたら存外に明るくなった顔を上げてきた。
「そういうのが全部片付いたら、俺、あんたにだけは話すよ」
静葉もその目線を、今は受け止めた上で頷いて、
「約束する」
「それ」
「ん?」
と楠原が首を傾げるまで待ってから口を開いた。
「年内までにお願いできる?」
「でっ……、えっ?」
「そんなに長くは待てないのよ。私、あと二、三年も勤めれば、年季空けだし。それまでの間に良いお話でもあったら、すぐに、まとまっちゃうから」
「良い話……、あるのか?」
「無いけど。今はね」
比較的軽い溜め息をついて立ち上がって、静葉は衝立越しに布団が敷き述べられてある、部屋の内側へと歩んで行く。
「貧乏書生に持ち去られるよりはって、女将さんも旦那さんも、あちこちで売り込みに躍起になってるから」
「俺……」
楠原も立ち上がってその後に続きながら、
「そこまでの事はあんたとは、考えていなかったんだけど……」
「ええ。そうよね。分かってる」
いや分かられても困んだよ、と言いたげに向けた目線が、静葉とかち合って、色味を見れば裏の意味まで通じている様子だったので、口をつぐんだ。
「だけど、お店にはお店の、考えとか腹積りとかがあるのよ。だから、そうね。今年中くらいまでを目処にしてくれる?」
掛け布団をめくり返した布団の内に、膝を入れた上で静葉は楠原を見上げる。
「来年早々とも思わないけど、お馴染みの整理はしておくように、言われてもいるから」
「分かった」
いや分かられても困るのよ、と言いたげな目線が、楠原とぶつかって、目の色を見れば裏の意味まで通じている様子なので、口をつぐんだ。
代わりに「店の女」を自覚した笑みを浮かべて見せる。
「それと楠原さん。貴方、今夜は私を抱けないわよ」
先に進めかけていた楠原の足が、そこで止まった。
「若い子達を困らせて、心配かけさせた、罰。私の寝姿、そこでひと晩指咥えて眺めてなさい」
衝立を指さしてその位置よりも、遠ざかれという指示だ。楠原が従って後ずさると、まるでご褒美のように笑みを深める。
「それが出来たらこないだの事は、水に流してあげる」
観念したように目を閉じて楠原は、衝立を隔てた畳にあぐらをかいたのだが、
「……こっちの側には布団も無ぇのかよ」
とぼやきが口をついて出ることを、自分に禁じ得なかった。
「あら。隣に入るだけなら許すわよ」
「出来るわけがねぇだろ馬鹿野郎!」
怒鳴り掛けた途端に文言と色味の合わなさ加減に心付く。
「いや。あんたは馬鹿じゃねぇな。野郎でもない。俺の側にうってつけだ。自分で言ってりゃ世話ねぇや」
あーあ、と部屋の隅に重ねられていた、座布団を一枚取り半分に折りつつ、頭の下に差し入れながら横たわった。とは言え頭をわずかばかり左に倒せば、布団の足元側の先で身を横たえかけた静葉が微笑んでいる、という、見ようによっては実に楽しい景色ではあるのだが。
「名前、何て言うんだ?」
頬杖をついて左側に寝返りながら訊いてみる。
「呼んでやるよ」
一旦、目を伏せたが静葉は、また見詰め返して、
「教えない」
と答えた。
「だって私はここじゃ、何をどうしたって『静葉』だもの」
楠原の方でもその目線を、受け止めた様子で頷いて、
「決めてるの。笑ってここを出られる日まで、私の名前はここに来る、どのお客にも呼ばせないって」
「ふ」
と笑った目の端を、こぼれ落ちた涙には、自分で気が付いていないように見えた。
「やっぱあんた良い女だ」
おどけた感じに両腕を、せいぜい伸ばせる限り突き出して、
「ちょっとだけ触りたい」
と言ってもみたが、
「ダメー」
なんて、笑顔で言われて分かりやすく「ちぇー」と、返してみせた。
→ 罰ノ八 他所に見る
何かしら心に残りましたらお願いします。頂いたサポートは切実に、私と配偶者の生活費の足しになります!