【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ五(2/4)
明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。
(文字数:約3300文字)
「相当変わってんねあんた」
田嶋屋の若い者から声を掛けられた事は、楠原にとって有難い要素ではない。目立つ行動は普段から控えるようにと、これもまた、取り決めの一つとして存在している。
革靴の紐を結び直しながら、口元には笑みを広げて「んー?」と、適当くさい相槌を返しておく。
「フラれるって、決まっちまったらすぐ帰るって……。あんただって玉代払ってるくせに、って言っていいんだか、玉代しか払ってねぇくせに、って言っていいんだか」
店の警備員かつ花魁の護衛係の中では若手で、おそらくは楠原と同年代。無銭遊興者を捕まえる担当らしく、大抵店先に伏せて置かれた大樽に腰掛けている。
「ま。こっちとしちゃ、長いことねばった挙げ句ごね出す客よかは、楽で良いけどよ」
「フラれないようにしてくれたらいいじゃねぇか」
へらっ、と喉の奥を吹き払った笑みで、ソイツに振り向きながら立ち上がる。
「客は、昼と夜とで一人ずつ。土日休みで身体と神経、充分いたわってやるってのは」
「どの口がほざいてんだ。そうなったらてめえなんざ、まず真っ先に切られんだからな」
「へへっ。そりゃそうだ」
笑みを残したまま暖簾をくぐり、見返り柳なんかには目もくれずに通り過ぎ、漢詩が刻まれた石造りの大門を、越えるまでもなくすぐ外には、
「やはりここか」
田添がいる、事が店先辺りから分かっていた。なんせ色味がこの界隈にいる、他の者達と違いすぎる。
「下宿屋を訪ねたら留守で、女将からも、行き先が分からんと言われたからな。もしやとは思ったが……」
「へえ? おばさんと、しゃべったのお前」
「やむを得ずだ」
思いっきり深刻な顔になって返してくるから、苦笑する。よっぽど困難な仕事でもこなしてきたみたいじゃないか。
「日の高いうちから、人目を考えないのかみっともない。学生としての本分を弁えろ」
「何言ってんだこの上なく学生らしい所業じゃねぇか」
単純に目立つかどうかだけを考えれば、田添の方が際立っている。夏に向かう蒸し暑さの中で、田舎学生らしからぬ絹物を、きっちり着込んでまるで涼しいみたいに。
「今日は先輩達が訪ねに寄ると言っただろう」
ああ、とほとんど溜め息みたいな相槌が出た。
「忘れていたわけじゃないだろうな」
「忘れちゃいねぇけどもだからこその憂さ晴らしだよぉ。ったくめんどくせえ。かったるいんだよ相手してやんの……」
松原の、と今にも声に出し掛けたところで、目の端に、色味が映って口をつぐんだ。
「めんどくせえって?」
田添に対してはこのところ、感覚を切りがちでいた事が災いした。阿川と並んで、会話が聞き取れるほどのそば近くに寄られるまで、上司の二人に気付かないなんて。
「今めんどくせえっつったのはどっちだ! え?」
「いやっ……」
「楠原です」
こういう時に弁護をしてくれるような相方ではない。
「あはっ、あはははっ」
と適当に笑ってごまかしてもみたが、松原は睨みを利かせてくる。
「だらしねぇ、小汚ぇカッコしやがって。なんだ。昼間っからか」
ふんっ、と顔を背けられるまでもなく松原からは、
(コイツ、気に入らねぇ)
の色味があふれ出ている。前回顔を合わせた時とは、あまりの変わりように、楠原は驚くというより夢でも見ている心地になったが、阿川に案内されて近くの喫茶店に入り、四人で一つのテーブルを占めた後も、正面の松原から向けられる口調に表情は険しいままで、ようやく現実なんだと思い至った。
「悪いな田添。おめえこうした店苦手だろ」
一方で田添に向けられる表情は、随分とやわらかなものに変わっている。
「致し方ありません。女給に必要以上に近寄られなければ、平気です」
(田添。田添)
隣の席から楠原は、信号を送った。
(分からない)
(受信)
頬杖をついて、出そうになる舌打ちを押し殺す。楠原はそんなもの、要らないだろうと言い張ったのだが、田添の方で頑として譲らなかった信号だ。
「暗い中で声を出す事もままならず、作戦を遂行するに当たって、厄介になってくるのは互いの反応を読み間違える事だ。単なる『はい』では『同意』と受け取られ、知らず知らずのうちに互いの動きに、その元になる認識に、ズレが生じてくる可能性がある。また『はい』に『いいえ』ほど、外部の何者かが盗み取ろうと腐心する信号も無い。だから、『受信』だ。反響したのみで何の感情も伴ってはいない。英文字のEひとつで済むから傍目にも悟られにくいだろう」
そこまでをきっちり色味も揃えて言い切られてしまうと、楠原としてはぐうの音も出なかった。
「楠原は?」
「うにぇっ?」
阿川が小さくだが舌打ちする。その隣で松原が、煙草に火を点けながら訊いてくる。
「他に何か、付け加える事はねぇのかっつってんだよ」
「あ。右に同じでっす」
火が、間に合わなかったらしい。大きな拳が空を飛ぶように、楠原の目の前でテーブルを叩いた。
ダンッ、と重く響いた音に、店の一階中の視線が集まったが、「おいおい」と阿川が取りなしつつ、他のテーブルにも愛想を振り撒いて、よくある学生同士の言い争いみたいに繕ってみせる。
「松原さん。楠原に何も無いのは当然です」
田添は自前の手帳に目を落としたままだ。
「今のは二人でまとめた、報告ですので」
「そうかよ……」
両肩を下ろしながらゆっくりと、椅子を引き直し座り直す間も松原は、対面の楠原を睨み通しでいる。
「楠原てめえ……、ほんっとうにここんとこちゃあんとやってんだろうなぁ」
「ええはい。それはもちろん」
たははは、と軽く笑ってもみせるのだが、同じテーブルを囲んでいる誰からの目線も、しらけ切っている。それに気付きながらもたははははははと、白々しい笑いを続ける以外に、場のごまかしようがない。
せっかく火を点けた煙草を松原は、スパスパと一秒でも早めたいみたいに吸い尽くして、灰皿に、揉み消すと同時に席を立った。
「先行くぞ。阿川」
「うん」
書類に荷物を二人分、きれいにまとめて笑みを浮かべ、席を立った阿川は田添と軽く頭を下げ合って、次に目をやった楠原が、翌月の暦を見詰めている様子に気を留めた。
「どの日に静葉に会おうかなぁ」
はっとした顔を上げてきた楠原に、追い討ちを掛ける。
「そんな顔をしているぞ」
「ええ……。まぁ、はい……」
田添のカップがガシャリ、と隣で不機嫌そうな音を立て、ビクッと楠原もそちらを向いた。阿川がその様子に苦笑するとしかし、田添を向いた以上にビクついて、阿川の笑顔に向き合っている。
「静葉は上玉だからな。惚れ込むのも仕方ない。けど、まぁ、ほどほどにな」
「はい……」
と弱々しく返している。照れと言うよりは、笑顔の下に般若の面でも透けて見えている様子だ。
「礼を、言っておけ。支払いを済ませてもらっている」
「え。あ。そうなの? ありがとう、ございます……」
顔を向けずに手だけを振って阿川は店を去り、外で待っていた松原と、連れ立って行く様子が窓のガラス越しに見えた。テーブルでは楠原の指先が信号を刻んでいる。
(分からない)
それには何も返さずにカップの残りを飲み干してから、田添は答えた。
「簡単な話だ。俺も先輩達も、『同郷の学生仲間』として言いたい事はひと言に尽きる。『郭通いはやめろ』」
「へっ。やめろと言われてやめられるもんなら初めっから狂っちゃいねぇんだって」
「茶化すな。真面目な話をしている」
「俺だってそうさ」
ふむ、と田添は目新しい講釈でも聞いたみたいに呟いた。
「元々先輩達が連れてった場所じゃねぇか」
「無論だ。『遊び』としてな」
あそび、と楠原は初めて耳にした単語を辞書で引くみたいに繰り返す。
「袖にされ鼻であしらわれるか、ひどい目に遭わされ懲りてくれる事を期待してだ。本気になってどうする。お前の方でどれほど想いを寄せたところで、他の男にも買われている女だ」
(受信)
打ってみせると隣で口を結んだ田添がプイと顔を背けた。使う側に回ってみると確かにこれは、便利な信号だ。
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