【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』地獄ノ一(3/5)
明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。
(文字数:約2200文字)
楠原の廓通いが治まってきた事で、阿川の溜飲が下がり、楠原も腑抜けた感じに見せる程度になってきて、年明け以降は喫茶店に集まった学生らしき四人も、周囲の目に実に打ち解けた様子に見えた。
昨年末までの評価が上司の二人に伝えられた頃合いでもあり、一人で育て上げたわけでもないのだが、松原は特に機嫌が良かった。
「じゃ。俺たちは先に」
「ああ。ありがとうございます」
去り際に阿川は楠原を振り返り、笑みを浮かべながら囁いたものだ。
「がま口程度で拗ねてんじゃないぞ」
「えっ……」
反応に笑みを広げた阿川が店を出て、表で待っていた松原と、連れ立って行く様子を窓の向こうに見送ってから、楠原は口にした。
「先輩たちには話さないでくれって……」
「聞いたが、俺が頷いた覚えは無いな」
隣で田添は澄ました面持ちで、飲み終えたコーヒーカップを置いている。
「都合良く、お前がこのところ腐っていた原因にもなってくれた。そこは先輩たちの思い過ごしだが、否定する必要も無いだろう」
僅かだが笑みも返されて楠原は、開けた口を下唇から閉じて、ぱふ、と息を抜く溜め息をついた。
「お前って、騙すとか嘘つく以前の問題なんだな」
「誉めているのか貶しているのかよく分からんが」
翌年度からは楠原と田添にも、下級生が付けられるだろうし、前々から問題視されていたところに先例が出来てくれたのだから、私学にも徐々に増員されて行くのだろうと、彼ら四人の間では予想されていたのだが、
その日の学生寮に帰り着いた、田添が見たのは、自分との相部屋の片隅で両膝と頭とを抱えている阿川だった。
「どうか、しましたか」
阿川の場合は同室人から声を掛け、話を聞いてやらなければならない。十分に近付いた頃合いで、上げてきた目だけを見合わせた阿川が、小声で早口に告げてくる。
「『楠原大喜は今年度の三月末までで終了』だ」
自分たちと別れた後で上司の二人も、上役に報告に赴いて、知らされたものだろう。
「理由は」
「分からない」
頭を抱えていた腕をほどいて、あぐら座りの頬杖に切り替えてくる。
「アイツがヘマをやったわけでもないらしい。俺たちに累が及んでいない」
「一つ、心当たりが」
田添もその正面に正座して、阿川の前では煙草は取り出さない。
「彼の本来の身分が、洒落にならないほど高いものである可能性は?」
「まさか」
思わずのように笑いかけた途中で阿川は、真顔になった。
「……有り得るな」
「彼の下宿に郵便が届いていたそうです」
「郵便?」
「年末に。下宿の女将から聞かされました」
「そうした物は俺たちから、直接渡せば済む話だと……」
「ええ。ですから、ごく近しい関係者、おそらくは近親者からの、検閲等を断固拒否しての、要請でもない限り」
聞きながら阿川は息を詰めた。そうした要請が通される身分自体が、ごく限られている。阿川も実家は立派な部類だが、御一新以前の話だ。
「本部もそこで初めて、彼の本来の素性を、知った可能性があります。何せ自分たちの大半は戸籍など、当てにもならない。極めて重い犯罪歴でも見当たらなければ、本人から申告してきた情報を、わざわざ精査もしないでしょう」
溜め息をついて阿川は、自分の文机の引き出しから、小皿と袋入りのはじけ豆を取り出してきた。えんどう豆を油で炒って塩をまぶした菓子、と田添には知識でしかないが、振る舞われては食べ慣れてきて安心感は抱けている。
小皿に出したはじけ豆を中心に、向かい合わせで座り込み、ポリポリやりながら阿川は呟いてくる。
「上手いこと化けていたもんだなぁ……」
「そうですか?」
要は煙草と大差無い、と田添は、阿川以上に大人しく一粒ずつを噛み締めながら思ってもいる。
「根っこが相当に甘ったるい奴だとは、思っていましたよ。それなりに苦労は重ねてきたようですが、俺に言わせれば上等に、飯は食えている」
俺、という言い方を、田添から聞く事は初めてだったので、阿川は豆に伸ばした手を止めた。田添の実家も似たような部類だと、これまで思い込んできたのだが。
食うに困る事は阿川にも、ままあったので違和感は無い。日頃から、がっつく事も無く作法を弁えて食事する様子を、好ましく思ってきた。しかしここにきてふっと、はじけ豆ごときにも丁寧過ぎると気になった。まるで食うとはこういう動作だと、躾けられてきた動物のように。
「阿川さん」
「はいっ」
とっさに緊張を乗せた返事になってしまったが、気を取り直して言い直す。
「あ、いや……、何だ?」
「この件は、自分に預からせてもらえますか」
願い出る文言ではあるのだが、断られるなどとは思ってもいない口調だ。現に阿川としては対応を悩んでもいる。
「彼は知らずにいる方が、都合が良い。このまましばらく泳がせておきたい」
そこでパリ、と噛み砕かれた薄皮の音を、阿川は生涯忘れ切れないように感じた。
「ずいぶんと、馴れ合っているように見えていたんだが」
「餌付けされると弱いもので」
真顔のまま冗談を言っている様子も無く、田添は続けてくる。
「後を付いて歩けばまた、餌がもらえると思い込む。飢えを知っている者はどうしても」
楠原の、本来の素性が察せられた以上は、自身の素性も覆い隠す必要が無い、と決め込んで見せている様子だった。