【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ五(4/4)
明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。
(文字数:約3300文字)
繰り返すが二年目の、初めあたりの話だ。歓迎会と称しての宴席を終え、田添以外は皆連れ立って吉原に向かったその次に、顔を合わせた時くらいの。
そこからふた月ほどしか経っていないが、今ここで、初めて同じ話を聞かせたとして、同じ反応が返ってくるかは甚だ疑問だ、と田添は思っている。
このふた月ほどの間に楠原は、随分腑抜けた様子になった。より正確に言えばだらだらへらへら腑抜けた感じに見せていたらしかったものが、いよいよ内実まで腑抜けてきた。
以前は適当くさくこなしながらも、相当に気を遣っていた様子だったが、今や相手が最も気に触る言い方を、最も機嫌を損ねそうな頃合いで選んでくる。わざとなのかと言いたくなるほどだ。以前を知っているから余計に。
接する機会が多い分、また近い分田添は上司二人のように、郭の女に溺れ込んでいるのだろう、とは、考えていないが。
喫茶店を二人揃って出た途端に楠原は、顔色を変えた。
「やばい」
駆け出すが早いか、田添に向けても言い残す。
「田添! まめったらがしって!」
「ああ」
言われた文言は正確に分からないが、言いたい内容は理解した。楠原を追って目を向けた先には、この辺りに多い木橋の上に立ち、欄干に向かって拝むように手を合わせる(その仕草が田添には気に入らなかったのだが)女がいる。
欄干に手を掛け今まさに、乗り出そうとする身を楠原は、足元から払い、
「きゃ」
と余裕ありげな(田添にはそう聞こえた)声を上げ落ちてくる全体を、抱き留めて背中から橋板の上に転がり込んだ。
往来の者達が立ち止まり、いきなり倒れた男女二人に向かって、「なんだなんだ」とどよめきながら集まり始める。
ひと足先に二人のそばまで近付いていた田添は、
「警察を……」
と言い出す寸前だったように思うのだが、楠原は手振りで(待て)と送り、
「悪いな姉さん。ちょっとだけ」
腕に抱えた女と唇を、重ね合わせた。
「なっ……!」
常日頃からそうした行為には、虫酸が走り尽くしてちょっとしたきっかけでもあればこぼれ出そうな、田添の前でだ。
「何をやっている貴様ぁ!」
思い切り怒鳴り付けた田添に向かって楠原は、ニヤリと笑い、
「何って見りゃ分かんだろ。痴話喧嘩だよ」
女の頭を抱き込んで周りには見せないようにした上で、溜まっていた人々にも言い掛けた。
「おらそこら辺に突っ立ってる連中も、見世物じゃねぇぞぉ。まぁ見てもらったって俺ぁ、一向に構わねぇけどよ」
すると主には女に恵まれないしょぼくれた男どもで構成されていた人混みは、
「けっ。誰が」
とかぼやきながら次第次第に、ほどけて散らばり流れて行く。周囲が普段通りの落ち着きを取り戻した頃合いで、楠原は、腕の中の女と目を合わせた。
「事情なんか聞かねぇよ」
女は楠原を見上げたまま、先の数十秒に起きた事柄が飲み込めず、呆けた様子でいる。
「本当のとこなんかあんたにだって、分かんねぇだろ。見ず知らずの俺に分かるように、話し切れるようなもんでもねぇよな」
「あの……、どうしてその、私なんかを……?」
へらっ、と適当くさい笑い声が届いて田添も、気を取り直した。
「だけど、あんた失敗した時の恥ずかしさとか、その後の、面倒臭さとかまずは考えねぇと。今までさんざっぱら失敗してんのに、こういったもんだけキレイに上手いこと、仕上がってくれるためしもねぇよ」
「日中の往来だ。下には船も通っている」
気を取り直して見ると田添には、実にくだらない状況に思える。
「助けられる事を期待しての行動じゃないか」
「それはそれでほら、誰かが助けると思って結果、誰からも手を出されねぇって事も、ざらにあるから」
薄っぺらい財布を探って取り出した小銭を、女の手に握らせて、
「取っときな。端金だけど」
とか言ってやっている。
「浅草すぐ近くなんだから、何か好きなもんでも食えって」
呆れて溜め息をついていた田添は、
「兄さん」
と自分のぴったり背後から袖の裾を引いてくる指先を感じた。
「兄さんあん人の友達やろ?」
声はかすれた感じで、背丈は自分よりも少し低い、という事はまだ子供のようだ。
「おれにもなんか食わしてくれね?」
すえた臭いがして、袖を引く指もその先に覗く腕も、垢にまみれている。
「友達じゃ、ない。友達だとして俺が、お前に食わせる義理は無い」
「けちんぼ。おれ、はらへっとんのじゃ明日にでも、おっちんでしまうか分からんぞ。そしたなら、あんた、おれの声が耳に取り付いて、一生はなれては暮らされんが」
「立って歩いてそれだけしゃべれるならまだ、余裕がある。やり方を考え直して他所を当たれ」
ふふ、と急にそれまでより大人びた笑みが聞こえた。
「なんだ。兄さんはバカじゃないね」
定義が不明瞭な言葉は使いにくい。そう思いながら目をやった先には、もう、人の姿は無かった。最後に聞こえた言い回しだけは訛っていなかったなと、袖口の引かれた辺りを見れば確かに、汚れている。寮に戻ってから落とさなくては、と考えながら見やった先で、頭を下げながら去って行く女に向けて、楠原は手を振っているところだ。
「あの女一人だけを助けても、意味が無いだろう」
呆れ声で言い掛けると楠原は、「へへっ」と気の抜けた感じに笑い、
「なってねぇなってねぇ。助けになんか」
震える指先で安煙草に、火を点けながら、懸命に勇気を奮ったみたいに返してきた。
「目の前で、死なれちまうのもさすがに、寝覚めが悪いだろ。ただそれだけの話だよ」
お前にパン食わせた奴だって、が言外に滲んでいた気はしたのだが、声に出しては言われなかったので田添は、思い過ごしという事にした。
この辺りには江戸の頃からの木橋が多く残り、川の景色と共に名所として人々の心深くまで刻み込まれているために、掛け替えが上手く進まない。近代文明を礼賛する一方でかつての情緒を懐かしむのは、何も、この国固有の美意識でもないものを。
その日の田添にはおまけのような話だったが、楠原にはおまけだったのかどうか。その後川を眺めながら橋伝いに歩いていた二人は、下流に近い辺りの木橋に大勢の人が溜まっているところを見つけた。
「何だ。この、人だかり」
と楠原が足を止め、「ああ」と田添も溜め息をついた。
「道理でここまでの往来には、人が少なかった」
何だと問うまでもなく、人だかりの雰囲気で察せられる。隣から見ていた田添には、楠原の目線がふわふわと、人だかりを取り囲みながら浮かんでいるやわらかな固まりでも追いかけている様子に感じられた。
「二ヶ月は牢に、入れられると……」
「誰に何を、どうやって出たんだか……」
「出て来たはいいが、子供はとっくに……」
追いかける必要も無いほどに、田添の耳にもひそめき合う周囲の声なら届いていたが、
「さっきの女より、出来るものならこっちを助けるべきだったな」
「いや」
楠原はただずっと、人だかりに黒眼を向けている。
「俺は、そうは思わない、けど」
(分からない)
の信号が来て田添は、うんざりしながら目を閉じた。それこそ要らないだろうと、田添の方では主張した信号だ。
「分からないって事がお前にも分かっててくれなきゃ困るじゃねぇか。分かったフリして進めてたら、それこそ先がどうなるもんだか分からねぇよ」
「その分をだから『受信』で対応すると」
「『受信』なんか、思いっきしで同意寄りじゃねぇか。お前、『分からない』を甘く見てんなよ。『分からない』はもうどうあったって、『分からない』んだ。そこから先どこに動きようも、何を動かしようもねぇんだよ」
ふむ、と呟いて田添は、他に想定してあった信号を流用する事にした。もしかすると同じ意味合いに使えてくれるかもしれないが、今ここで、
(分からない)
と送られたところで田添の方では、
(受信)
としか返すつもりがない。
→ 罰ノ六 目に余る
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