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『唱え奉る河内國春乃井学園御詠歌部』第7話

第1話(末尾に全16話分のリンクあり)
(文字数:約11000文字)


7 ただ単に やってみたいんだ 合宿を

 田舎のお祭りになんか、本当はこれっぽっちも興味なんて無いんだけど、
 スニーカーの紐を結ぶからって先に家の外に出て、おばあちゃんおじいちゃんには聞こえないようにため息をついた。

   音谷おんや鬼神楽おにかぐら

 僕が今住んでいる、かまど山のふもとの古和ふるわ地区では、みんなが知ってて当たり前みたいに話をするけど、
 僕は移り住んだ去年、初めて話を聞いて、見せられて、その頃はまだ身体中の湿疹も残ってたし、痛みも痒みも時々ぶり返すから外に出たくないし誰にも会いたくなかったんだけど、子供は家から決して出ないようにするか、大人に守られながら常眼寺じょうげんじに行くかのどっちかだって、
 夜道に一人で出歩いた子供は、頭から鬼に食べられるんだって。
 なまはげ? とか思ったり、子供って言っても本当なら今中三なんだけど、とか色々不満はあったんだけど、
 おばあちゃんが、毎年神楽をすごく楽しみにしてるって言うから、仕方がないなって飲み込んだ。
「弓月くん。こんばんは」
「うわぁ、ちょっとの合間に大きゅう伸びたねぇ」
「ああ男前になった。だいぶ力も付いたやろ」
 近所のおばさんおじさん達から、次々声を掛けられる。ああ、うん、べつに、とか適当に返事してたらおばあちゃんから、袖を引かれた。
「弓月。誉められてんのやで。にこって笑とかんにゃ」
「いいよ。あんなのどうせお世辞だから」
「お世辞でもや。ありがとう言うてばあちゃんの、笑って返さんならさみしいやろ」
 そうした基本的な事まで一個一個、ここに来てこの年で教わらなきゃならないんだって、出そうになるため息を飲み込みながら境内に向かった
 秋祭り、って言ったって、屋台とか何も無い。子供たちは近所のおばさん達から、ビニール袋一つ分のお菓子をもらっている。提灯を、張り巡らせる手間なんて掛けられるほどの人口が無いから、大きなかがり火が間隔を空けて焚いてあって、かえって火の本物感が凄い。
「おう弓月くん!」
 太い声で呼ばれてビクッとした。本当なら高校に行ってる年なんだし今年から地域の手伝い頼まれてるけど、
 イヤイヤやってたらおばあちゃんが何か言われそうだからそりゃやるけど、
 こないだ頼まれた湧き水の、取水タンク掃除は、もう最初っから最後まで怒鳴られっぱなしで、きっと何か間違ってたんだ叱られるって思いながら近付いて来るその人に固まっていたら、
「ほい」
 って茶色の封筒手渡された。
「こないだの、お金や。ここに来るやろ思て今やっとかんにゃ」
「いや僕ただの手伝いって、聞いてたんで……」
「んあぁ? こん辺りみんなの飲み水やで? 金出さんわけのあろかい」
 声が太くて怒鳴られてるみたいにしか聞こえないけどおじさん、笑顔だし。
「金出されん思いながらあんだけ細かくやっとんなら、こいからも怠けんやろ。助かるわい俺達はもう年いって、細ぁか隅々まで見え切らんで」
 聞きながら哀しい気持ちにも、腹が立つような気分にもなったんだけど、全体としてはやっぱり仕方がないやって、薄く笑っているしかなくて、
 ああ僕はこの先ずっと、こういった仕事頼まれるんだな、
 って言うかここの人達ずっと、こういった仕事年取ってからも、身体疲れさせながら続けてきたんだなって、
 ちょっと前の僕だったら、いや、今だってお母さんなんかに話したら、間違えた、とか、諦めた、とか、もっと良い人生があったのに、とかきっと、言われちゃうんだけど。
「領収入っとるで。書いて持って来てや」
 中が透けそうに薄い封筒で、多くてもきっと一万くらいのお金をもらって、
「ありがとう、ございます」
 ってすぐ、にこってしながら返せるのって、何かを失敗した事になるんだろうか。
 失敗みたいに見える人はいるだろうけど、僕がそう思っておく事もないんじゃないかなって、ふわふわした気分みたいなもので、まだ言い切れはしないけど。

 夜が深くなってお堂近くのかがり火が、火の粉も鮮やかにはじけ出した頃に、鬼が現れた。
 黒い着物を着て烏帽子とかかぶって、鼓とか笛なんか鳴らしている人達もそばにいる。
 昔話に出てくる感じの鬼じゃなくて、多分能とか狂言みたいな、細く長く突き出した二本のツノに、両頬を耳のそばまで裂けた口。長い黒髪は荒れて乱れて、普通の人の二、三倍くらいにふくらんでいる。もちろん、お面でカツラだけど。
 所々赤く染まった金地の着物の、あちこちに真っ赤な毛房がぶら下がって絡み付いて、袖を振るたび身を回すたびになびく感じが、去年は花びらみたいだなってちょっと可愛らしく思えたけど、今年は目にした瞬間から気が付いた。

 ああ。これって、血だ。

 日が傾き出した午後から、山頂近くの音谷を駆け出して、駆け下りた先の地域に寺を次々襲って最後に、常眼寺に来るって聞かされている。ずっと戦い続けて傷だらけの身体中から、血を吹き出させながら踊ってるんだって、
 聞かされても本当には子供じゃないから、「わざわざ敵が待ってる寺にばかり行かなきゃいいのに」とか思っていた。
 踊りとかにも全然詳しくないから、止まってるみたいにゆっくりだし退屈で、動きの一つ一つに意味があるんだったら、それそのままどこかに書いて残してくれないかな、とか思いながら、ずっと目は離し切れないでいる。
「去年の人と違わない?」
 って言ったらおじいちゃんはふっへっへって笑って、
「いやぁ? 毎年変わらんて聞きよるで」
「あたしも何か違う気のする」
 っておばあちゃんが言ってもまたふっへっへだ。
「せやから、そうやて聞きよるでよ」
 去年は怒っているような、同時に泣いているような感じで、恐ろしい、気もしたけど僕は、
 おばあちゃんを思い出したけど、
 今年は明らかに、怒っていて、お面の向きや角度によっては同時に笑っているみたいに見えて、本当に子供だったらもっと怖いだろうな、と思っていたらやっぱり、泣き出す子供とかいて、気を使ったお母さんに連れ出されていた。
 お堂の回廊にお坊さんが現れると鬼は、ピタ、と止まる。そこは去年と同じ。
 鬼を調伏ちょうぶく(って何か難しい言い方)させる経文を唱えるって言うから、暴れたり苦しんだりするんじゃないかと思ってたけど、お堂に立ち向かったまま身動きしない。
 回廊の軒下にも、その辺のおじさんおばさんみたいな人達が、二、三十人くらい集まり出して、そしたら、鬼はその場にひざまずく。それも、去年と同じ。
 子供の泣き声笑い声に、叱り付ける親御さんの声、交通規制までは掛けていないから近くの道路を走る車に長距離トラックなんかの音で、何を言っているお経かそもそもお経なんだし分からないけど、どこか歌みたいにも感じる。
 鬼は鬼なのに大人しく、それに聞き入って、お経が終わると立ち上がる。そしてそのまま背を向けて、元の音谷に帰って行く。
 なんだ最後は地味だな、ってのが去年の、正直な感想、
 だったけど、今年は立ち上がってから、鬼のお面がゆっくりと、左を、次に右を見回して、またその場に腰からまっすぐ座り込んだ。
 あれ? って思っていたら、
「ふはは」
 って笑い声が聴こえて、子供? って思った。少なくとも、かなり若い。
「ふはははは」
 そう思っていたのにちょっとずつ、なんだか濁ったような声が混じってきて、最後には、どんな笑い方だったのか分からない。二重三重に声が響いて気持ちが悪くなった。
 笑い続けたまま立ち上がり跳び跳ねるみたいにして境内を、駆け去って行く。笛や鼓の人達からは予想されていなかったみたいで、慌てて楽器をまとめながら追いかけていたけど、子供たちの、特に男の子は「今年は面白かったー」とか言って、「ぴょーん」って跳ねる真似とかしている。
 僕は、見物席に座ったまま動けなくて、本当には子供じゃないはずなのに気持ちが悪くて、
「どうした。弓月よ」
 立ち上がったおじいちゃんに気付かれた。
「おじいちゃん」
 調伏、出来たのかなあれって。何だか、演じてるうちに本物に、なっちゃったように見えたんだけど。
「鬼って本当にはいないよね」
 ふっへっへって笑い方がそこではかなりイラッとした。
「ああ。おるわけないやろ」
「じゃあなんで、わざわざ鬼になるの」
「それはまぁ、派手にやっつけられてもらわんにゃ、明日っからみんな気分良く暮らされんでよ」
「やっつけられて、もらってんだ」
 その言い方が何だかもっと、イラッときて、
「じゃあ僕、何も……、気分良く暮らせなくたって良いかなぁ」
 今周りに見えるもの全部がちょっとずつ気持ち悪く思えてきた。
「誰も気分良く、暮らせなくたって……、みんなが今よりはもうちょっとくらい、苦しんでくれた方が良いんじゃないのかなぁ……」
 口に出せなくてずっと飲み込み続けてきた、黒いものが、引きずり出されて表の方にまで回って行って、どうにか作って顔に貼り付けてきた、「仕方ないや」とか、「悪くもないか」なんか、じわじわ飲み込んで行っちゃいそうで、
「弓月よ」
 って飲み込まれる途中の頭に、手が乗ってきた。
「なんや。造りもんの鬼さんがそないに、怖いんかい」
「そんなんじゃない」
 手のひらがぽんぽんと、叩いてきてあたたかい。
「弓月は、子供や」
「ふざけないでよ」
「安心せえ。ここでは子供は守られる」
 あの子は? って一瞬思ったけど分からない。全部がただの、演技だったのかも知れないし。
「音谷に鬼はおらん。なぁんもない場所でよ。あんな所を鬼が気に入って、暮らしやせんわ」
 今度その、音谷って所に行ってみなきゃ。だって、その晩そこにはおばあちゃんが、絶対にいたはずなのに、見た記憶が無くて覚えていない。多分、なんだけど僕は、きっと、
 あまり善くないものを見た。

 こないだから僕の席は、なんとなく教壇の正面、だから部長の前で固まってしまって、
「夏休みって、御詠歌部には何かイベントみたいなの無いんですか?」
 いろは歌、のすぐ後に、右側のななめ後ろから声がした。
「いべんと……?」
 左側の二列に座る林さんも廣江さんも、部長も初めて聞いた単語みたいに、顔を見合わせながらくり返している。
「去年は出来たばっかりで、いっぱいいっぱいだったからね」
 右端の列、教室の入り口に一番近い側で、幸さんが微笑んでいる。
「無いなら新しく、作っちゃえば良いじゃないですか。何か、やりたくありません?」
 多分神南備が言い出さなきゃ、僕も含めて他の部員みんな、特に何にもやりたくはないし、考えてみようともしなかった気がする。部長も乗せられたみたいに頬をゆるめた。
「その様子だと何か、心当たりがありそうだな神南備」
「はいっ。候補その1、かまど山の伝承館!」
「御詠歌関係無いじゃないか」
 僕はため息と一緒に呟いたけど、
「ああ。友達が働いているんだったな。足助氏の」
 部長は興味を持とうとしている。
「友達もですけど弓月くんも、かまど山に住んでるし」
「ああ。それ言われちゃうのかなって思ってたけど」
 一年にはもうかなり知られてて、別にバカにもされなかったけど、かまど山のどこだか分からないからだよなって、僕はあまりポジティブにも思ってない。
「かまど山に?」
 だから部長の驚いた感じにも、目を伏せてちょっとうつむき気味に答えた。
「はい」
「ならばっ……」
 そしたら部長はわざわざ、教壇を下りて、
「ならば古和を知っているのかな?」
 僕が座っている真正面にやって来る。
「知っているも何も、そこですよ僕の家」
 そしたら廣江さんに、林さんも立ち上がって、
「ではっ! ではではではではではっ!」
 三人並んで僕の正面に迫って来て圧がすごい。
「常眼寺は?」
「近所の、菩提寺ですけど」
 そう答えた途端に「はぁっ……」と、それぞれにうつむいたり、のけぞったり、天を仰いだりする間があって、また三つの首が一つの生き物みたいに集まって来た。
「なぜそれを早く言ってくれない!」
「いや自分とこの菩提寺って普通そんな気軽に話題にします?」
 この流れでなんとなく、予想なら出来ていたけど、
「常眼寺の住職、笹森ささもり和尚わじょうと言えば、当代切っての御詠歌の名手じゃないか!」
 いやそんな知ってて当たり前みたいに話されても。
「山頂でぇ、現在詠監えいかんを務められている方ですよぅ」
 詠監、ってそもそも知らなかったけどきっと御詠歌に関する役職なんだろう。ななめ後ろを振り向いて、
「知ってた?」
 って訊いたら、神南備も思いがけなかった感じに首を振ってくる。
「私達がっ……」
 一旦教壇まで戻って部長は、ラジカセから取り外したCDを、アニメか何かの必殺アイテムみたいに突きつけて来る。
「いつも聴いているこのCDも、笹森和尚のお声だ!」
「えええ!」
 流れと雰囲気に乗せられて、僕もいつもの僕らしくなく驚いちゃっている。そして渡されたCD見たら、確かに時々見かける御住職の顔写真が、表面にプリントされてるし。
「有り難くも日頃から拝聴出来ているお声だろうに、張山くんは気付かなかったのか?」
「日頃……、って言ったって僕仏教自体には、ほとんど興味が無くて……、そりゃお彼岸とかお盆には御住職、家にも来られますけど……、身近にいる人が自作じゃない本気のCD出してるとか、思わないし……」
 僕が座っている机に、両手を付いて、
「お盆には、家に、来ると言ったかな?」
 寄せて来る身体と顔が部長、目の前で近い近い近い。
「はい……」
 仕方なく答えた途端、まずはしっかりと背筋を伸ばして、僕に向かって深々とキレイな頭の下げ方をしてくる。
「御迷惑をっ、承知で是非ともお願いしたい! 御詠歌部全員でその際、お宅に寄らせては頂けないだろうかっ!」
「えっ……」
 嫌だとも良いとも僕は、まだ答えてない戸惑ったまんまだって言うのに、
「いえーい! 夏合宿、けってーい!」
 って神南備はともかく、林さんに廣江さんまで拍手とかハイタッチとかしちゃっている。
「みんなただ単に、やってみたいんだ合宿というものを」
 みんな青春をローペースで送って来たもんだから、起爆剤が入った途端にこれまで抑えてきた分が噴き出している。僕も引きずられたって良さそうな感じはあったけど、右端の幸さんが、いつも通りの雰囲気で微笑んでいて我に返った。
「言っときますけど古和、ほんっとうに何っにも無いですよ? 山頂までの輸送トラックのために最後のガソリンスタンドがあるくらいで、コンビニどころか、スーパーも、本屋とか駄菓子屋だって無い」
 嘘だろう昔話風のコントじゃないかとか、思われそうだけどここで言っておかなくちゃ、本当に目の前に見て驚かれたり困られたりするよりはマシだ。
「なに。気にしなくていい。私と幸は今音谷から通っている」
「おんっ……!」
 驚いた。ものすっごく驚いたけどこれって僕にとっては、良くある普通の驚きじゃなくて、
「『田舎の中の田舎じゃないか。あんな所に人が住んでいたのか?』」
「言ってません!」
 卑下って上を行かれると、言い訳が効かなくなって、かえって自分に突き刺さる。
「顔に、書いてあるんだ」
 むしろ勝ち誇ったみたいだった部長が、僕の顔色に気付いて笑うのをやめた。
「失礼。張山くんだけじゃない。私と幸は幼い頃から、そうした反応に慣らされ続けていてね」
「そこはかまど山のぉ、どの辺りになりますかぁ?」
 林さんに訊かれて部長は、黒板に向かった。ざっと山の形を描いて、太い線と細い線を入れる。
「山頂がここで、ふもとが古和、だとしたら、山頂までの道路がこちらで音谷は旧道の端だ。近代的な情報網流通網からは、完全に外れてしまった。鉄道の駅はあるが、鈍行しか止まらない」
「あぁ、それで通り過ぎるんですねぇ。私は急行で訪れますからぁ」
 細かい単語の一つ一つが、所々でチクチク痛い。
「何か、音楽に携わっていた地域ですか?」
「ん。まぁ、ちょっとした……」
 神南備に訊かれて部長は、らしくなく濁そうとしていたけど、
「明治になって、変わったの」
 いつの間に席を立っていたのか、幸さんが黒板に向かっていた。
「元の地名は『隠れる谷』と書いて、隠谷おんやよ」
 振り向いて、書いた文字を僕達にも見えやすくしてくる。
「鬼の語源」
「幸」
「いいじゃない。もう地名も場所も話しちゃったんだし。それも、晃の口から」
「鬼神楽……」
 って僕の口からもこぼれ出て、
「ほら。古和に住んでるんだから知ってるわよね」
 似た背格好で立ち並ぶ二人分の視線を感じた。
「じゃあ……、神楽を舞っていたのは……」
「私だ」
「私よ」
 声が重なって一瞬目も見合わせる。
「これで毎年もめるんだ」
 部長は呆れたため息をついたけど、幸さんは口を結んでいる。
「何弓月くんその、鬼神楽って」
「秋祭り。なんだけど」
 今ここで、古和の側から話すのはちょっと、怖い感じがした。
「引っ越した、ばかりで僕は、詳しくは……。去年はずっと、療養してたし……」
「音谷の感覚では、神事だな。家に伝わる鬼の面にカツラに、決められた装束を誂えて身に付け、昼下がりから出立し、ふもとまでの寺を巡って行く」
「神楽を舞うのに、鬼、なんですか?」
「わりと実例はありますよ」
 廣江さんの質問には神南備が答えている。
「鬼もあるし古事記に出てくる人物とか、ヤマタノオロチなんかも、地域によって色々です」
「寺の境内で神楽を舞い」
 そこでは神南備が、思わずみたいにため息をついた。
「どっちかって言うとそっちの方が不思議」
「寺の僧侶からは、御詠歌を頂く」
 御詠歌、だったんだ。だけど。だとしたら。
「ひどく、不思議でもないと思いますよぉ。かまど山などは特にぃ、独自の神仏習合を貫いていますからぁ」
 林さんに言われて神南備は、ちょっと赤くなっている。
「それは、知っていますけどうちの神社、戦前に整理されてるから……」
「お寺と神社って、何か違うの?」
 さっきから話がよく分からなくって訊いてみたら、
「うわぁ……」
 って林さんがもう完全に引いた。
「ここからなんですよ弓月くんって」
「一周回っちゃってもう、それでいいような、気もするけど」
 廣江さんが微笑んでくれたのが、救いなようなそうでもないような。
「数えの十六、つまり十五の年から引き継ぐんだ。去年は私が舞い、一昨年は幸だった」
 去年。
「持ち回りですかぁ」
「いや。運命と、自らの全神経を掛けた厳正なる審判!」
 これ以外に正解は無いみたいな笑顔で、
「ジャンケンだ」
 僕なら絶対に納得が出来ない事を言ってくる。
「じゃあ今年はまだどちらか決まっていないんですか?」
「どちらでも、対応出来るように準備はしてある」
「いや。決めときましょうよ。当日ジャンケンして負けた側は、この一年の練習何だったんだって、なるじゃないですか」
 って言いながら、もしかすると二人ともギリギリまで勝ちたくないんじゃないかって気はした。
「だからもう、私でいいだろうと言っているんだが。生まれた順は確かに、私が先だ」
「同性の双子なら、後に生まれた方を上にする例もあるわ。男だから自分が上だって、勝手に思い込んじゃってるだけじゃない」
「去年は楽しかったしふもとの方々からは喜ばれた。今後も是非とも続けたい」
「楽しむものじゃないのよ神楽は! 私は責任を持って全うしたいの!」
 なんか嫌だ。いつもの幸さんらしくない、キツイ感じの、理由が分かっているのは今僕だけだ。
「男性か女性かって、決まっていないんですか」
 神南備に訊かれて部長は微笑んでいる。
「長子相続だ」
「長子って」
 クスッて神南備の笑い方が、今は気持ち良く感じなかった。
「そんなの絶対『男子』って意味じゃないですか。意地張っちゃダメですよ。幸先輩」
「決まってないわ。『長子』に添え書きで『男にあらず』って、書かれてあるのよ」
「だから、それって運悪く、男子が産まれなかった場合の控えでしょう?」
 何だこれ。神南備も、神南備までいつもらしくない。
「無理して頑張ること無いですよ。部長がいるんですから大人しく、裏方に回っておいた方が」
「みくりちゃん」
 名前呼びのちゃん付けなのに空気がビリッてなった。
「うちの事情も知らない人が、適当な言い方しないで」
「適当って……」
 神南備は、明らかに不満げで、
「普通はそうみたいに、思えますけど……」
 謝りもせずぼやくみたいに、幸さんからは目を逸らす。何だよその態度って、振り向いた僕と目が合って、恥ずかしそうにしていたけどだったら今謝っといた方がいいのに。
「御詠歌部、創り出したのって、それで?」
 廣江さんは同級生の部長にはいつも、敬語じゃない。
「ああ。毎年聴かされてはいるが詳しいところまでは、よく分からなかったものだから」
「だったら、そういった事これまでに、説明してくれたら、良かったのに」
 珍しく、部長にしては長めの間が空いた。
「申し訳無い」
 本当に、気持ちの入った言い方だなって、伝わったんだろう。廣江さんは微笑みを返している。
「口に、出しにくい事だったんだ。音谷に住んでいる事も、神楽を舞っている事も。特に鬼である事は本来なら、明かされてはならない」
「今思いっきり知っちゃいましたけど?」
「本来なら、だ」
 戸惑っていたら林さんが、うなずいてくる。
「『中の人』、みたいなものですかねぇ。中に誰かいる、とは思わないように見なくては」
「そう。そこさえ守れば」
「守りようがないわ」
 幸さんの声はまださっきの余韻みたいにとがっていた。
「成り切っている、はずなんだから。人を感じさせた時点で失敗よ」
 せっかくまとまりつつあったものを、わざわざ蒸し返すなよ、みたいなしょうがなさそうな笑みが部長と林さんに浮かんでいる。
「あった。あった」
 ななめ後ろからはこの中で、やけに無邪気に聞こえる声がした。
「ネットに、出てましたよ鬼神楽。正式には『音谷の鬼神楽』」
「便利だねぇ」
 僕はいまだにガラケーだ。防災無線が何よりも大事な地域に暮らしているものだから、大容量の電波を個人で消費するのはためらってしまう。
「『鬼と呼ばれたある武将の、一昼夜に及ぶ戦いを再現したもの……』」
 言われたらそんな気がしなくもないけど、部長は微笑みを深めている。
「必ずしも本当の事が書かれてあるとは限らないが」
「だけど、最後はお寺の側が勝っちゃうんですね……。まぁ、仕方ないか。山頂が聖地なんだから、仏教とか、御詠歌から見れば神楽なんて、敵対勢力だし」
 パリン、
 って音が鳴るみたいに部長の、顔色が変わって、幸さんが息を飲んだ。
「神南備」
 聞こえたその時から神南備は固まって、
「私達は、敵じゃない」
 神南備だけじゃない。部長以外、誰も声なんか出せない空気になった。
「本当は、鬼ですらもない」
 幸さんが、さっきまでの表情をゆるめて部長に寄り添って行く。
「『張山くん』」
 無理して作っている、とは感じたけどここは、合わせておかなきゃって立ち上がった。
「『はい』」
 教壇に駆け寄ってなるべく、僕以外に顔を向けないようにさせる。
「『すまない。ちょっと後を、頼みたい』」
「『分かりました。大丈夫です。任せて下さい』」
 いつもの僕だったら言わないような感じの言葉だけど、今声に出さないよりは多分いい。
「『ありがとう。では』」
 ギリギリ近くまで、作り続けて、
「失礼する」
 って背を向けたその時から多分、涙を落としただろうと思った。幸さんは僕に軽く頭を下げながら、部長に続いて教室を出て行く。教室を、振り向いて僕は、まだ頼まれた事が残っている。
「え。何。え」
 神南備は青ざめて固まったままだ。
「私何か、ひどい事言ったぁ?」
「言った。だけど仕方ない。古和に住んでなきゃ今の流れで、僕だって言ってたかも」
 神南備に近付きながら僕にも、ずっと引っ掛かっていた事があって、
「それより神南備、どうしたの? なんかさっき幸さんに失礼だったよ?」
 多分ちょっと責めて聞こえるみたいに言っちゃったら、神南備はこらえ切れないみたいに泣き出した。
「だって! だって女だよ? ケガレるからってお前はケガレてるからって私、神域とか近寄らせてもらえないよ?」
 うわ。って今まで深く突き刺さっていた事は分かったけど、これ、どうやって抜き取ったらいいんだろう。
「御詠歌だって! ずっと! 家の中で誰からも馬鹿にされてる! 胡散臭いしそんなの、気持ち悪いって! 友達だって! ねぇ弓月くんも分かるでしょ? 私達、部活の時間以外で御詠歌の話、ちっとも出来ないじゃない!」
 あれ。何だろうこれ。回ってる。
 御詠歌なんかやってるの、恥ずかしいって、本音では僕も思ってて直接神南備に言ったりはしなかったけど、友達に訊かれても濁したり、神南備が話し出そうとするの止めたり話題を変えさせたりしてきた。神南備は好きなものに一生懸命で、本当は誰にだって、話せるなら話したかったはずなのに。
 僕から神南備に向かって、神南備から部長に向かって、部長から、僕にも何か向かって来る、もうすぐそこまで来てるんじゃないかって、怖くなったけど、
 ヒモを引いて寸前で止める手を思い出した。

 大丈夫だ。止められる。

 魂の周りを螺旋状、だから、止めた所からまた逆向きに回り出す。鳴らさないのに音、じゃなくて、鳴らし続けるんだ、そこから。出来るだけ長く。まるで、永遠みたいに。
 いつか、必ず終わりは来るんだけど、終わらせるのは今じゃないし、僕じゃない。
「大丈夫だよ、神南備。部長は神南備のこと、嫌いにならない」
 机の際に立ったまま、それ以上、近寄らないように気を付けた。
「部長は、神南備が好きだから」
 神南備は泣いていて、一瞬もっと泣き出しそうな声を漏らした。
「神南備は、最初からずっと、面白がってくれたから。誰にどんな事言われてるとか、感じさせないくらいに、気にしてないんだなって僕も思ってたくらいに、毎日一生懸命、楽しんでたからさ。だから」
 引きずられないように僕は、なるべく同じ調子を保っておく。
「大丈夫だよ。一度傷付いたくらいで好きな子の事は、嫌いにならない。だって僕は、それで部長を嫌いにはならないし、だからって神南備も、僕の事嫌いにならないだろ?」
 本当は、もっとはっきり口にしたい言葉があったんだけど、これ以上一つでも乗せたら変に力が加わってしまいそうだ。
 神南備ほどじゃないけど、神南備とはまた種類が違うけど、僕は、部長も好きで、多分神南備も部長も、それぞれにそんな感じで、今の僕達ものすっごく最悪に、うっとうしいくらい丁度良い。誰もこれ以上ほんの爪先程度でも、踏み込めないくらいに。
 だけど「止めた」分、なんか輪郭がくっきりしてきた。どっち付かずの宙ぶらりんみたいに知らない誰かからは見えるかもしれないけど、宙ぶらりんを、自分でちゃんと選んだ感じがする。
 ふっと目の端で何かが動き続けている事に気付いて、顔を上げると、林さんと廣江さんが無言で無表情のまま、拍手を寸止めさせ続けていた。
 何ですか、って唇だけで言ってみたけど、二人とも無言で、無表情のままだ。鳴らさない、ってこんなにしっかり聞こえる時もあるんだなって思った。


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