帰りの飛行機内とその後【ヨーロッパの旅2000年】
はじめましての人も、
前から知ってる方も、
ごきげんよう。
偏光です。
2024年の今振り返る。
(文字数:約2000文字)
故郷の数え歌
私の故郷、と言うよりは、
両親や先祖の出身地の、
数え歌、とは言っても節はついておらず、
寄合における酒の席で方言の、
イントネーションにリズム感のみを楽しむ、
集落では唯一と言ってよい娯楽だが、
三銭を持って芝居を観に行っただけで、
親からはひたすらに罵られ、
挙句は兄弟から十ほど殴られるとは、
文化や芸術といった方面に対する、
理解以前に認識の、
存在しなさ加減が甚だしい。
機上の物思い
飛行機落っこちてくんないかなー。
と、
私は正直思っていたんだが、
お世話にもなっている親御さんの下に、
マリー嬢は無事帰ってもらわなくてはいけないので、
本気で真剣な呪いを掛けるのはやめにした。
つまり私は帰国後の自分の扱われ方に、
我が国のこの状況がいつまでも続きはしない事を、
ほとんど正確に予見できていたんだ。
貯金にバイト代を投げ打ったとは言え、
滞在できたホテルに食せた料理を考えれば、
破格であった事は身に舌をもって痛感できる。
大学生全員での行動時の、
とりわけ買い物中に、
「うわー。すっごく安いねー」
と喜ぶ声があちこちで聞かれたが、
安くなんかないんだ。
ちょっと冷静になって考えろ。
ローマの裏通りで、
顔を隠すように歩いていた青年には、
おそらく手に取る事も叶わない品々だ。
パリだろうがローマだろうがロンドンだろうが、
私たちが顔を合わせてきたのは、
ホテルや飲食店で働く労働者であり、
それらの土地に住む人々なんだよ。
「日本と比べてサービス精神が希薄で、
店員とかも愛想無いよね」
じゃないんだ。
連泊期間中くらい挨拶し合えよ。
掃除の人とだってすれ違った時には。
こっちが人だと思っていない相手が、
どうして人だと思いながら接してくれる。
ただ今現在(2000年当時)の、
円が強いというだけで、
自分たちは全く偉くないぞ。
親世代が偉かったわけですらない。
単に運良くこのタイミングの、
ギリギリ最後の名残に、
居合わせ切れただけだ。
幸運には一つ一つ感謝していなければ、
いずれ罰が当たるからな。
第一次就職氷河期(しかも初年度)
案の定ちょうど私の世代から、
第一次就職氷河期に突入した。
それ以前からあった就職難と、
混同する私より前世代も多いのだが、
全く異なる。
就職難は企業側の選びたい放題だったが、
就職氷河期は選ぶ事自体をやめた。
私はむしろ楽になった。
就職難の時代には、
「どこの企業だってわざわざお前みたいな、
見た目にも性格にも難がある、
使えない学生を選ぶものか」と、
両親からも教授たちからも言われていたので、
誰もが就職できない状況になってくれた方が、
冷静に周りを見て行動できた。
地元の中小企業のみに絞って就職活動し、
同年度の学生たちが、
100社単位で断られ続け精神を磨り減らしていく中、
わずか3社目で内定。
面接では好きな本や読んできた本に、
小説を書いている話しかしなかったんだが、
新入社員歓迎会の席で、
社長の父親がフランス語教授であり、
タネさんが愛弟子である事を知らされた。
まさかそんな縁が繋がるものとは。
マリー嬢は実は目的を持って、
当時の女性としては珍しい工学部に入学し、
資格取得や技術研修にも熱心だったもので、
今も某有名企業の下請けながら、
IT方面でキャリアも積みつつ働き続けている。
パトリシアとメルセデスも、
何せミュージカルを観なくてはならないので、
医療系に医薬品系の正社員として働き続けているし、
孫請けを渡り歩く末端プログラマー、
それもリーマンショック時に戦力外通告を受けた、
私が最も経歴としてはしょぼくなったが、
単に尊敬に値する彼女たちとの、
比較の問題で致し方なかろう。
最後に言っておく。
全ては預かり知らぬところで繋がっているんだ。
人を侮った分は必ず侮り返されるからな。
せいぜい警報装置を磨いて、
決して切らないようにしておく事だ。
何があっても生き延びろ。
大事な事などどこの国においても、
ほとんどそれだけだ。
以上です。
ここまでを読んで下さり有難うございます。