【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』地獄ノ二(3/5)
明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。
(文字数:約2000文字)
「あら」
呼び出しを受けて出た静葉の表情は、思いの外事も無げだった。
「楠原さん」
「すまねぇな。静葉」
楠原よりも周りにいる店の者達を、ひと通り眺め渡して、呆れたような溜め息をつく。
「今日は貴方、絶対お越しにならないって思ってたのに……」
「ん。何でだ?」
「今、玉割りですよ」
「あ」
声を掛けてきたソイツの、暖簾に隠してクックっと笑い出す声が聞こえた。
額を打ちながら天を仰ぐ。女将からの、忠告も無くすぐさま花魁が呼ばれた。花魁が呼び出されてしまえば契約は成立だ。既に若い者たちは店先に集められ、無銭遊興を取り締まる手筈を整えている。
「分かったよ。だけど、酒とか踊りなんかは……」
「本日のお客様には必ずお酒と踊りとを振る舞う事になっております」
必ず、に殊更力を込めて、女将は宣告した。
「倍額じゃきかねぇなそりゃ」
「大丈夫? 貴方……、お支払いになれるの……?」
「払えるよ。けど、まぁ、後でな」
顔から手を放して辺りを見れば、静葉からも、誰の目からも一切信用など得られていない。
「おい。そこの、暖簾のそばにいるお前」
「へい旦那」
とソイツは暖簾を割り、わざとらしい愛想を貼り付けた笑顔を見せてくる。
「お前一人だけ見張りに付けて、他は人払いしてもらいてぇな」
とんびの裏地に縫い綴じまでして、隠し持っていた財布の中身を、ソイツ一人の目の前でさらして、ほとんど全てを吐き出す羽目になった。
「毎度ありーぃ」
こんな時にだけ満面に満たされ切った笑顔を見せてくる。
「年貢の納め時ってヤツだよな。観念しろよ」
「言葉の使い方が間違ってんじゃねぇか……、でもねぇか。適当か」
ひぃ、ふう、みぃ、とキッチリ勘定を数え終えるなり、
「金持ってるくせにしみったれた底値で、ちまちま顔だけ見に寄ってた、ツケが回って来たんだよぉ」
とソイツは前々からの友達みたいな口の利き様だ。
「正直な話お前んちだったら、正規の手続き踏んで行きゃあ、身請けだって出来ないこたないんじゃねぇ?」
「どこのどなた様とお間違えになって言ってんだよ。どこの家だろうと俺次男坊だから、そんだけの世話なんざ付けちゃもらえねぇっての」
「嫡男の方が家柄とか何かと気にされるだろうよ。やだやだねぇ。身分違いだの芸者傾城は御免被るだの、江戸の悲恋でもあるめぇしよぉ」
歌舞伎の謡い文句なんかを口にしながら、出て行ったソイツと、時間差で入れ替わる形で、静葉が入って来た。
もちろんのこと上客相手に、豪勢な装いを凝らして化粧も丹念に施してある。改めて向かい立つと圧倒されて、くたびれたとんびで訪ねた自分に苦笑した。
「その、すまなかったな。静葉」
「何を、謝ってらっしゃるの? さっきから」
「いや」
約束、し合っていたはずの事を、もちろん店の中なので無かった事にされている。楠原としては眩し過ぎる顔容から目を逸らし、背骨を立て起こす力を失ったように、あぐらで座り込んでいくしかない。
「本当は、こんだけの事してこなきゃ、そんでそれ続けてこなきゃ、こんな感じにあんたに、会えやしなかったんだなって」
「今更じゃ、なくて?」
ふわりと隣に座ってくるその動きからも、香りが漂ってくる。
「今日は、どうしていらしたの?」
「どうして……、って言われたら、その……」
「失礼致します」
声を掛け襖を開けてきたその先に、三つ指を突いているのは小鈴だ。
「お酒と、三味線とをお届けに」
顔を上げるなり意外そうに、
「楠原様」
と目を見張る。
「よぉ、小鈴」
「お客様、今日は、楠原様だったんですか? どうしてまた、こちらに?」
「驚くわよね。それは」
静葉は鷹揚に笑うのみで済ませるので、戸惑いながら部屋の内へと入って来た小鈴が、振り向いた襖をきちんと閉めるまでの間、楠原は精々気を張って、
「そう。実は俺、素性を隠して通ってきた、良いとこの御曹司だったんだ」
舞台上で正体を明かす役者のように振る舞って見せたが、小鈴がきちんと正座し直したところで、限界が来たように気を抜いた。
「みたいに言ったら信じるか? 小鈴」
「信じません」
言い切られて口をつぐむ。その端を少し微笑ませてもいる。
「だって、楠原様は、楠原様ですもの。いっつもお足が無いって素寒貧だって、出店で買ってきた飴玉とか組み紐なんかを、小鈴に下さる楠原様ですもの。本当にそのようなお方でしたら、小鈴は困ります。大切に取っておきました組み紐、何の値打ちもございません」
少しの間手のひらで目元を隠した楠原は、眉根を寄せて苦り切った顔を作って見せた。
「……店の若いのにかつがれたんだよ」
「ですよね」
心当たりがある様子で小鈴はにんまりとした笑顔になる。
「今日の分の払いだって、ソイツに付け届けてもらってらぁ」
「あらイヤだ。まぁお店側の仕組みだから私からは、何とも言えないけど」