【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ九(2/5)
明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。
(文字数:約3300文字)
どうも妙だ、明らかにおかしい、と田添は気が付いていたのだが、
尾行や夜間の潜伏に関しては、楠原は常人をはるかに凌ぐ能力を有しており、そこを認めないわけにもいかない。いつもの通り楠原に任せて、田添はまず詰所へと、応援の要請に向かったのだが、
「嫌な予感がします」
隠し扉の内側に鎮座している、小柄で小太りの所管長、名は等々力というのだが、彼に対して付け加えずにいられなかった。
「あと半時ほど様子を見た方がいいかもしれません」
珍しい事だったので所管長の方でも、書類仕事の手を止めて田添の顔を覗き込んだ。
「不思議なもんで嫌な予感ってやつは、まぁ結構な率で当たるんだね」
果たして廊下に出た田添が、表玄関ではなく裏口へと進んで行った先で、その裏口から駆け込んで来たのは黒いとんびを身にまとい、黒い帽子で顔を隠してもいるが、頭身や身のこなしで田添には知れる、楠原だ。
田添の正面で足を留め小声だが口にしてくる。
「ごめん。撒かれた」
「ま」
声が出かけた口を田添は固くへの字に結んで、楠原の襟を取った。警察詰所内の廊下とは言え自分たちは、往来で声を出して良い存在ではない。
隠し扉を開けて再び内側へと、楠原を押し込みながら潜り込む。驚いた様子の所管長にも構わず、楠原の両頬を、左右両側から掴み取って引っ張り回した。
「教えてくれ。どこをどう捻じ曲げればこの口から、そんなふざけた文言が出てくる? 『撒かれた』だと。『撒かれた』だと? 正気で言っているのか貴様。これはお前の失敗だ失策だ失態だ! もうお前は今日は駄目だ。家に帰れ!」
胸を押しただけであっさりと、床に倒れて尻餅をつく。帽子が落ちて表れ出た表情を見れば、きょとんとしてまるで、無関係の市民か子供のようだ。
「本当にお前……、今日はどうかしているぞ!」
「田添くん、そう怒らんでも」
「違うんです。等々力さん。コイツ、普段は俺を馬鹿にして、今みたいに俺からされるがままになってるような奴じゃ……」
きょとんとした丸い目を、二、三回瞬かせて首を傾げる。
「俺、お前を馬鹿にしたつもりはねぇよ?」
「そのつもりでいる事自体がその証拠だ!」
「そんなの、お前の都合で決めんなってぇ」
「あのね。ワシは所管長として今、二人の何を見せ付けられておるの?」
言外に「仲良いなぁ」を滲ませた呆れ顔ではあったのだが、田添は真正面からお叱りと受け取って、等々力に向かい姿勢を正し深々と、頭を下げた。楠原は起き上がりつつ拾った帽子の、埃は払ったものの手の内に押し揉んでいる。
「幸い警邏隊にはまだ伝えてもおらんからね。問題にすらなっとらんよ」
それを聞くとホッとした息をつき、ふわふわした赤茶色の頭髪の上にちょこんと、帽子を乗せた。
「これまでが、熱心過ぎたのかも分からんね。二人とも、実家や故郷などには、一度も帰っておらんだろう」
応接の場ではないので所管長は、仕事に入る前に持ち込んでいるヤカンから、普段使いの湯呑みに白湯を注いで机の上を、それぞれが立っている位置に向けて置いた。
「言ってしまえば自分と異なる赤の他人を、演じ続けて休んでもおらんわけだ」
「演じている意識は自分には無いので、平気ですが」
田添は即答したが、等々力が無言でいる事に気付きその目線をたどると、振り向き気味に見やった楠原は目を伏せて項垂れている。
「ごめん……」
田添の視線から隠すように、手のひらで顔を覆ってもいる。
「俺……、今ちょっと、何を、どう考えて……、誰に何を、お前にも……、どこまで話して良いんだか、分からなくて……」
「仕事に入る前にそれを言え」
「仕事は、仕事だろ。前から決まってた予定だし、休めないなって……」
は、と田添は呆れた溜め息をつき、所管長は瞬間だけ目を丸くした。
「とっくに、手遅れかもしんないし……、俺はあの人の……、本当の子供でもないんだし……」
田添の表情が苦り切ってこめかみにも青筋が入っていく様子を、所管長は自分の湯呑みから、白湯を飲む素振りに隠して観察している。
「詳しくは訊かないが、相当に深刻な状況じゃないのかそれは! 仕事が出来るような場合か!」
「ワシも、同意見。まずそちらを片付けた方が良かろうと思うがね」
田添と所管長からも後押しされた形に、期せずしてなってしまい、無視するわけにも後回しにするわけにもいかず、楠原が向かったのは、堂々とした門構えと重厚な土塀に取り囲まれた、彼の実家だった。
いや。実家に相対している間は、彼を指して「楠原」と呼ぶわけにいかない。
分厚い木材と鉄鋲で構成された門扉の前で、彼はなおしばらく立ち尽くしていた。舌打ちして背を向け立ち去るかに見える瞬間もあれば、門扉を貫き通しそうなほど鋭い眼光を向ける瞬間もあった。震える指と両手を胸の前に固く握り合わせ、まるで基督教徒が祈る姿に見える時間もあった。
そうしてその、組み合わせた手を放すと右側だけを、拳に握り高々と掲げ上げて、
「ごめんくださーい!」
と叩き鳴らすその間は大声を張り上げた。
「夜分に大っ変、失礼しまーす! だけど! こんなんでも一応、家の人間なんで! 開けてもらえませんかー!」
もちろんわざとやっている。そうでもしなければ、とてもではないが、通常の手続きで温かく迎え入れられるなどとは、思えもしない場所だ。
小窓が開いて外を覗いてきた、顔を見知っている女中が、眉をひそめるやすぐさま小窓を閉めた。絶望すると同時に義務だけは果たしたような、安堵した心持ちになったものの、重い響きと共に門扉の右翼だけが、ゆっくりと屋敷の内側に引き開けられて行く。
開き切る前に腹をくくって滑り込み、使用人が諌める声も聞かず、随分離れて見える母屋へと突き進んで行く。母屋の正面玄関前には丸眼鏡を掛けた、父親に似て背が高い細身の男が立っている。
「よぉ、若旦那。久しぶり!」
若旦那、などと声を掛けられた義視の方では、表情も変えず何の言葉も、挨拶すらも返さなかった。心の内で頷きつつ屋内に入り、黒いブーツを履いていたので屈み込み片足を脱ぎ終えたところで、向かって来る、人の気配を感じて総毛立つ。
「こんな夜分に非常識な客だと思えば、お前か」
薄い唇の片端だけを歪ませた笑い方が、目の端に入った時点で吐き気がする。
「何の用だ」
「御挨拶だな桝機。てめぇに用はねぇよ」
ブーツのもう片足を投げ付ける風に脱ぎ捨てて、内に上がり立ち向かった瞬間に、心臓が鳴った。外側から打たれでもしたように強く。
なんだ。コイツ今、俺よりも背丈低いんだな。
しかし自身でも気味が悪く思えるほど、顔には愛想の良さげな笑みを浮かべて見せる。
「旦那が御病気だって、風の噂で聞こえてきたからな。見舞いに来ただけさ」
「お前が来ても伯父さんが喜ぶものか。かえって引導が渡される」
カッときて繰り出そうとする前に勢い良く引いた腕を、掴み留められて振り返ると、義視がいた。
「縁起でもない冗談は、やめてもらえませんか。桝機兄さん」
弟の表情にも目を落とすなり、呆れた調子の溜め息をつく。
「お前もだ。何を、笑っている」
言われても弟の方では、笑みを消す様子も無くますます強めているのだが、離された腕は大人しく下ろし、改めて身構えようとはしなかった。桝機が心底ホッとした事を隠すような、わざとらしい溜め息を聞かせてくる。
「君の、身内だろう。君の口からお引き取りを願いたまえよ」
「言って聞かせて分かるような相手ではありませんから」
義視から向けられた目線に弟は、ただ受け止める形で応えた。官製葉書に記されていたのは、義視の筆跡による義視の名前だ。
そして自分の本来の名前。それも所詮は妾に過ぎなかった、母親の遠野姓で。
「それに……」
義視が目をやった先、廊下の奥から灯された行燈が一つ、玄関口へと近付いて来る。
もちろん人が手に持っていて、白い洋装の制服を着た看護婦だ。聞かされていたらしい風貌の者を見つけると、来客に対しての適切な笑顔を見せた。
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