【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ四(2/5)
明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。
(文字数:約3300文字)
夜の浅草の、最も賑わう繁華街、を一本脇道に逸れた呑み屋街。だらしない安とんびがふらふらと、そぞろ歩くにいかにも相応しい通りを、カツカツと音が鳴りそうに固い見た目の田添が追い掛けて行く。
往来や店口にいた呑み助どもは、さては刑事か憲兵かと目を留めたが、呼び止められた安とんびがへらへら応じている様を見て気を逸らした。だらだらした奴には大抵、気難しい奴がついていて、世話役に説教役を務めさせられてしまうものだと、「『書生のふりをしている何者か』に間違われやすいやはり書生」だと認識してくれる。
やがて書生らしき二人は背を向け合い、へらへらした方だけが振り向き気味に手を振りながら、反対方向へと歩み去った。カツカツは健全な表通りに、ふらふらはよりいかがわしい薄暗がりへと、さもありがちな様子で消えて行く。
もちろん実際に消えるわけではない。暗い服を着て暗い中を歩き、だいぶ離れた道沿いを提灯を間に並んで歩く、二人連れ、が手にした灯りには目を閉じて、二人の足音に声色に、耳を澄ませている。
暗い方が俺、良く見える、
と幼い頃から楠原は思っていた。昼の明るさに、爆発するような色味に邪魔されずに済む。音色の一つ一つがはっきりして、輪郭もくっきり浮かび上がってくる。
女の笑い声に潜む、相手を小馬鹿にした色味。肩や頬骨が筋張った男の、やに下がった様子。二人との正確な距離はもちろん、道の両脇に並ぶ塀の高さ。往来のゴミを溜めておく木箱の幅に配置。大きめの石ころに、馬だか犬だかの糞。塀を垂れる小便の跡。楠原の歩みに応じて首をめぐらせている、屋根の上の猫。
ソナーだな、とかなり後になってから田添の方では思い当たった。外国の最新鋭の戦艦に、搭載されたかその研究中だったかの頃合いで、楠原を思い出し確認しようにももはや連絡の取りようが無い事を、数分の間はしっかりと悔やんだ上で、潔く諦めた。
やがて楠原がたどり着いた、一軒家の塀には、先に侵入した田添による痕跡が残されている。痕跡を消しながら、縄などの侵入に使われた道具があれば回収しながら、楠原も侵入し、事前に調査しておいた庭や建物の合間を忍び歩く。屋内の間取りも調査済みで、目星を付けておいた部屋の外壁と、外塀との隙間に挟まるようにしゃがみ込んでいる、田添を見つける。
楠原も同じ隙間に潜り込むと、分かってはいたが身動きが取りづらく、田添の背中には腹の身がへばり付き、帽子には右腕全体が乗っかる格好になる。田添の右手が震えながら、顔の真横にある楠原の太ももに伸び、(不快)と示してきたので、帽子の上に一応は(ごめん)と返す。
状況的に声はもちろん物音を発する事も禁じられているので、二人は盲人用の指文字に、聾者用の手話を応用し、二人の間で良く使う語句を工夫した、独自の信号を送り合えるようにしている。長い文章までは無理だが単語に簡単な意思確認なら可能だ。可能だからと言って状況が、好転するわけでもないが。
(不快不快不快)
(ごめんごめんごめん。ってか、仕事)
最後の指を打った途端田添の背中からは色味が消えた。仕事に集中して楠原の事は、外塀の一部とでも思い込む事にしたらしい。(すげぇ)と苦笑気味に打ってみても、反応は返らない。ぱか、と開けた口を下唇から閉じて楠原も、薄汚れた壁にべったりと、片側の耳を張り付ける。
浅草の路地で楠原がぼやいていた、「仕事」とはまさにこの事だった。
断固撲滅すべきであると、国が内外に向け宣言してみせた以上、街娼達の動向を調査し報告して、集積された情報を分析して、それで終わるはずは当然無い。
一年目の間は適性検査期間でもありそれで終わってくれていたのだが、二年目に入り、一応は正規の調査員とみなされた途端、そこに「手入れ」業務が加わった。
上層部が営業停止にまで追い込もうと決めた、「物件」に突入し検挙するのだが、そのためには「証拠」を揃え「現場」を押さえなくてはならず、組織の中で最も権力が弱い、若手がそこに当てられる。
今日はまだ良い、と楠原は思っていた。まだ二人分の足場がある。それすら無い場所に更に犬の糞でも散っていた日には、どれだけみじめな思いをする事か。いや、どこであれどんな日であれ、みじめな事に変わりはないが。
他所様の男女の乳繰り合いなんざ、自分の隣にも女がいてくれるってんじゃなきゃ、まぁ面白くも何ともねぇ。耳が汚れる気がするだけで、どうだっていいんだ何もかも。健全な若い男子がまったく、何やらされてんだか。
ふっと目を上げて見た塀と軒との隙間から、覗いている夜空には、月が冴えていた。三日月よりも両端が、糸のように細い。在るか無きかのようにささやかな月だが闇の中では明らかに、光だ。
お前はそこで何をしているのだと、問い掛けてくる。
「こんなに馬鹿らしい仕事もねぇよなぁ……」
すると耳に届いた声色に、壁から身を離した楠原は田添のとんびの上衣を引いた。田添にはまだ聞こえないらしく、腕に(待て)が返ってくる。楠原にはやきもきし出しそうな悠長さだが、自分の耳が人よりも異様に鋭敏すぎるらしい事には、いい加減で気付いている。
(よし。行け)
指示された途端に立ち上がり、潜んでいた隙間を飛び出した。田添の耳には呆れ返るほどに音が無い。軽いし素早い。この仕事をしていなければ泥棒だ。
真っ先に捕まえてやる、と田添が宛ても無い使命感を胸に秘めていた頃、裏口に身を寄せた楠原は、戸板の脇に背中を張り付けていた。
ピーッ、と甲高い笛が鳴る。田添が鳴らしたその音を合図に、表口からは待機していた警官隊が押し寄せて来る。
「貴様ら何をしている!」
(何をしているか分かってて来てんじゃねぇか)
とそれを聞く度に楠原は思う。言わずもがなではあるのだが。
続いて女達の悲鳴に、男共の慌てふためき転がり倒れる様子。表玄関から最も遠い部屋の内では、筋張った頬骨から出て来そうな声が聞こえてくる。
「やべぇ。出口。出口どこだ」
ソイツの他にも重なって、男達の声に足音。
(ひい。ふう。みい。一人諦めた二人)
「よっしゃあっちだ」
「待って。待ってよ」
元から顔馴染みなのかもしれない。後から来る方はずいぶんと腹が出て、乱れた着物を整えながらも走りづらさに帯をぎゅっと、締め直したところで、
(飛び出して来るのは、左手だ)
バン、と叩き割るみたいに木戸を押し突き出て来た腕を、掴みながら脇の下に潜り込む。
「え。わ。わあぁっ!」
逃げ出そうと全身から勢い付いていた流れだから、腰を払ってやるだけで男は宙に浮き上がった。うつ伏せに倒れた背中に足を乗せる間に、後から来た奴は帯と足回りにばかり気を取られていたから、伸ばした手で襟首を掴めば引きずり出せる。二人とも周りが見えていないから、暗い裏口で何事が起きたかも飲み込めずにいる。
「なんだよ密偵がいたのかよ!」
踏み付けた背中越しの言葉を聞いた途端、帽子の陰でぱか、と楠原は口を開けた。
(もう、慣れたって良い頃だとは思うんだが……)
足裏に感じる背筋に力を込め、掴んでいた左腕もひねり上げる。
(その、『イヌ』って呼ばれんの、俺聞く度にやたら腹立つんだよなぁ)
「いてて! 痛ぇっておい!」
肩を叩いて来た指先には、(おい)よりも(こら)が多めに乗っかっていた。振り向けば(こちらが先だ)と言わんばかりに、田添が縄手錠の先を差し向けている。
しかしながらこのやり取りは、男共の目が慣れない間、顔形はもちろんそれを隠す外套や帽子の色味に、背格好すら把握し切れなかった間に済まされたのだ。
二人はその事実を知らなかったが、従って自分達から売り込みもせず、直属の上司達が気付くまでにも日数が掛かったが、同じく二年目にある新米密偵の中では、群を抜いて優秀な組合せだった。
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