文化は等価
日本刀と刀鍛冶の世界を、
重んじ敬意を払いたいのであれば、
父が息子に小銃を造り使い方と共に教えて渡す、
ガンスミスの世界も同様であり、
カラシニコフは大衆文化の象徴である事実からも、
目を背けてはならない。
良いか悪いかは抜きにして、
好きか嫌いかも可能であれば傍に置いて、
文化は何処のどういった形態・様相であっても、
容易く軽んじるわけにいかないものだ。
なぜなら文化とは、
各人が生まれ育った土地土地の、
気候や植生に基づく、
日々の食事に生活行動様式、言語を含めた身体感覚が、
徐々に織り成し育てて行くものだからだ。
少なくとも私個人はそうした認識で世界を眺めている。
「文化」と「文明」に関しては、
もはや国ごと時代ごとの価値観が混ざり込んで、
定義も不確かになってしまったが故に、
独自にその本質を見極めようとした結果だ。
日本語を美しいものだと讃えたいのであれば、
ヨーロッパにアフリカに中東にアメリカにオーストラリアの諸言語も、
国内であっても各地に残された方言も、
それぞれの土地においては同様だと、
感じ取り切れないまでも知っておく必要はある。
京野菜に有名漁港の魚介類を良いものとし、
フランスのワインにイタリアの生ハムを堪能したいのであれば、
捕鯨もフォアグラもアジアの昆虫食も同様だと。
私には幼少の頃から不思議に思えてならないのだが、
好きになるのは良い。
愛する何かがある事に、
それに耽溺できるひと時は素晴らしいものだ。
なぜ「それ以外」や「それ以前」を、
容易に軽んじ切れ、
時には無かったようにさえ見捨て切れる?
ここ3年以上高野山金剛流の御詠歌を習い続けているが、
「若者の音楽は何を言ってるか分からなくて、
気持ちが伝わらなくてねぇ」
とふんわり同意を求めてくる連帯意識は、
正直に言って邪魔だ。
私は洋楽もシャンソンもロックも雅楽も演歌も、
BiSHもヨルシカも泉谷しげるもクレヨン社も、
シタールもイスラム系宗教音楽セマーも聴く。
先日NHKで観た、
オルガニストの鈴木雅明さんによる、
北ドイツ・オランダ紀行番組で私も初めて知ったのだが、
バッハが二十代の頃に聴き惚れたオルガニスト、
ブクステフーデの存在を、
なぜ我々は知らされていない?
音楽史となると、それも西洋の、
バッハから話を始められてしまう?
小説、という表現様式自体、
近代以降にようやく誕生したものだ。
あえて言うが、
もっと豊かな広がりがあった文字や声色の表現世界を、
わざわざ狭めてしまっただけだ。
私は小説家ではあるが本質は語りべだと言いたい。