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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』地獄ノ一(2/5)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約2900文字)


「ヨブは罪無くして罰を負う」
 パシン、と鋭い音が楠原の身にも、何かの始まりか切り替わりの合図のように響く。
「それは途方も無く、過酷な罰を。家屋も財産も、愛する子供達もただ一夜にして、全て失い、身体中を悪い腫れ物に覆われる。見るからに、汚らしい姿と成り果てては妻も、それまで彼を慕っていた者たちも、彼に背を向け嘲笑い、町外れの最も穢れた土地に、ただ居座る事のみを認めた。それきり彼の姿には、誰も目を向けず、彼の嘆きには、耳を傾けない。
 かつての友人たちは、瓦礫に居座るヨブを訪ね、その有り様を嘆いて見せながら、口々に責め立てる。自分たちの預り知らぬところで、ヨブが、大変な罪を犯したはずだと。自分たちが、見てもいない罪をあげつらっては、ヨブにそれらを認めるよう迫る。罪を認めて神に、赦しを請えと。
 しかし、ヨブは訴える。畏れ多くも天の父に対して挑む。これほどの罰を負うだけの罪を、我が身は犯した覚えが無いと。無論、神は姿を現さない。応ずる声も聞こえない。かつての友人たちは、更に嘲りを強め罵倒する。
 それでもヨブは訴え続ける。かつての友人たちの言葉には、耳を貸さず、姿にも振り返らず、天の父ただお一人に、向かい続ける」
「なぜですか?」
 思わず飛び出した文言が、語りを止めたので楠原は恥じ入った。 
「すみません……」
 目上の者の言葉を遮る事が、無礼である事くらいは心得ている。白里翁はただ口をつぐみ、楠原に目を向けているだけなのだが。
「なぜ、ヨブはそこまで、出来るのかなって……。返事なんか、何も無いのにずっと……」
「それはヨブが父を信じているからです」
 見る者によっては何という事も無い、老人の笑みでも、楠原には雷に撃たれたごとく感じ入ったらしかった。
「自分が父により世に出され、これまでを、見守られながら生きてきた存在である事を。その父が、自分を見捨てるなど断じて有り得ないという事を。
 裏を返せば、信じ切れる者であったからこそヨブは、試練に遭ったとも言えます。人の多くは言葉では何をどう言おうとも、信じていない、者ですから。ただ人の間で人の眼にのみ、異様に映る。
 貴方が先ほど暗唱された部分は、友人たちがヨブの罪を数え上げる場面です。単なる想像でしかないものを、随分と、見聞きしたかのように事細かに」
 そこで白里翁の笑みには多少の濁りが混じったのだが、楠原は受けた衝撃に項垂れていたので見ていなかった。
「普通はその辺りで心が折れて、自らに、罪があったものと思い込む」
「……よく、ある事なんですか? こういう事って……。俺、今ものすごく、身につまされてるって言うか……」
 途中から弾かれたように顔を上げ、
「じゃあ! その、母と子の関係についてはその本に、何かありますか……?」
 すがるような、目の色でもあったが白里翁の方で、笑みを消した事に気が付いて、乗り出し気味だった身を引く。
「質問は、一つずつに」
「すみません……」
 背筋を立て納めるまでを待ち、一つ頷いてから白里翁は、笑みを浮かべた。
「よくある事、とも言えますし、滅多に無い事、とも言い切れます。お気を付けなさい。私は今、貴方にとりわけ響くような言い方を、心掛けています」
「あ……」
 それをわざわざ告げてくれる事が、どれほどの親切であるかも、楠原には伝わる。だからこそ白里翁の方でも告げたとも言えるが。
 金色を隠す風にして手を乗せた、黒い革表紙に目を落としながら、白里翁は続ける。
「母と子、に関してはこの本は、いささか冷淡、と言わざるを得ません。しかしそれも致し方の無い事です。言葉は基本的に、男性のものだ」
 そこで目線を楠原に向けてもくる。
「女性の心は言葉では表し切れぬほどに深い」
 楠原が頷く様をただ見守り、
「故に我々は、ただ察するしかありません。数々の、時には名前すら記されない女性たちが、受けてきた苦痛や屈辱を」
 苦痛、や、屈辱、という語句にすら、痛みを感じるかのように頬を引きつらせる様を、観察している。
「身に覚えの無い子を宿したマリアが、どれほど恐怖したかを」
 そこには意外そうに目を丸くして、首を斜めに傾けた。
「怖かったんですか……?」
「それは怖いでしょう」
 白里翁としては、予期しなかった反応でもない。聖者はその振る舞いばかりを善しと見られ、具体的な苦難を、身に迫るほどには斟酌などされないものだ。
「神の子だと、自分以外の誰に話して信じてもらえますか。婚約したばかりの夫はどう思うでしょうか。自分たちの子もまだいないうちに、極めて大事な存在として、授かった子を、さてどう育てれば良いのやら。
 どれを取っても並み一通りの、困難ではありません。しかしマリアは、受け入れるのです」
「諦めたんですね」
「諦め、とは異なります。自分は神により形作られた存在なのだからと、ただ、受け入れるまでです」
 理解が及ばない自分をもどかしく感じてなのか、口を結び赤茶色の髪を掻き回す仕草に、白里翁はゆったりと首を振った。
「ヨブもマリアも言うなれば、神の似姿です。神が求める究極の、理想の有り様と言っても良い。常人にはとても真似すらも出来ません。しかし、それで良いのです」
 座椅子から立ち上がり、文机を越えて白里翁は、楠原の正面へと歩み寄った。部屋の内に入ってくる障子戸越しの光もあって、見上げる楠原には、さも神々しく映るだろう事も意識しながら。
「完全を、求めて良いのは神だけです。人は完全など求めてはならない。
 この世では、人は、完全でなくとも許されます。相手に対しても、同様です。完全でもない者を、人は、許す事が出来るのです。
 そこを教えて下さるのが、いわゆる『神の愛』なのだろうと、私は、考えています」
 聞かせている途中から、こぼれ落ちた涙に気が付いて、恥じた顔を伏せた楠原にもう一言声を乗せるなり手を差し出すなりすれば、白里翁の側の思惑は、完成するはずだった。
 自分に心酔し自分のために的確に動いてくれる、駒を作る、という思惑だ。
 しかし白里翁は涙を見た時点で背を向けると、楠原をただ一人残して、まるで小用でも足しに行くかのように部屋を出た。昨年の末に他界した友人が、自分が信仰する教義にだけはついぞ意見が合わなかった事を思い出し、自分のその思惑を、喜ばないだろう事を察したためである。
 楠原は知らなかった事だが白里翁は、時折訪ねていた友人宅で、毛色の変わった子供の姿に、使用人として扱われているが実は友人の隠し子らしい事を、見聞きしていた。そればかりか友人本人から、その子の行く末に対する悩みなども、打ち明けられている。
 一方で白里翁の側にも知らずにいた事があり、あの友人の子息であれば、養子に出すなどして姓を変え私学に入れられている事は、有り得る話だったので、既に実家を離れ監督下からも逃れ出て、密偵になっていようとは、かえって想像もしていなかった。


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