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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ八(4/4)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約3800文字)


 春駒が収監された、という話は、日が落ちて、希望する者には夕飯が出される時刻も過ぎてから、下宿部屋を訪ねに来た田添によってもたらされた。
 業務でもない行動は、田添には珍しい事だったが、楠原の下宿仲間にも女将にも、その区別などは付かない。
 話を聞きながら楠原は、あれから浅草では弥富と弥栄の姿を見かけなくなった事だし、春駒は庇護下に置かれなくなったのだろう、と理解して、
 そもそも弥富と弥栄がなぜわざわざ、足繁く浅草に通い続けていたかについては、芝居見物が趣味、という向こうからの言い分をそのままにして、思いを巡らせなかった。
「刑が、軽すぎる」
 そしてもう一つ珍しい事に、自前の煙草(高級品)に、火を点けながら田添はぼやいてきた。向けようとした灰皿を手で制して、もちろんのように持参した、携帯用を使っている。
「誰であろうとほぼ一律で、たったの三ヶ月だ。しかも態度によっては早められる。連日次々引っ切り無しに、新顔が送り込まれるからな。牢にも空きが無い」
 文言と、色味は今日もきっちり揃い切っているので、楠原も安煙草に火を点けた。吸い入れる煙は自分でも、いつも苦笑が飛び出すほどに不味いのだが、そのうちどうでもよくなってくる。
「どうせああいった連中は、生まれついてのろくでなしで、反省も何も知りはしない」
 どうでもいいんだ本当は。何もかもがもう、とっくの以前から。
「だから俺はいつも言っているんだ。淫売こそが社会の、害悪だとな」
「そうだな。お前の言う通りだ」
 煙と一緒にそう吐き出した途端、田添はまだ半分以上残っている煙草を、きちんと揉み消して携帯の灰皿に仕舞い、その灰皿も喫煙道具入れにしっかりと収め入れて、懐に戻した上で、楠原の正面に向き合って来た。
「何だそれは」
「え?」
「『そうだな。お前の言う通りだ』だと? いつもみたいな適当くさい、混ぜっ返した口調でもなく。本当にそう思っている人間は、そうした事をそんな口調で言わないものだ」
「何だよおい。決めつけられても困るよ。俺は本当に今そう思ったから口にしたまでで、別にごまかしとかじゃ」
 不味い煙のせいか、軽くめまいがする。今聞こえている分も今自分の口から出ている分も、文言は難しく感じないのに、上手く飲み込めない。
「田嶋屋を、早々に出てお前は、何をしている?」
 かと思うと今度は今更的外れに感じる事を言われて、吹き出してしまう。
「お前、田嶋屋は別に長居できると決まった場所でもねぇぞ?」
「ふざけるな!」
 胸倉を、掴まれると頭に血が上った。反射的に腕を取りねじり返したくなったけれど、相手は田添だ。
 こっちが距離を詰められるの本当は心底大嫌いだって、前に一回やった時点で気が付いて、そこからなるべくやろうとはしないでいてくれた奴だ。
「何をしている! 正直に答えろ!」
 そんな真っ向から言われたって正直に答えるわけもないんだが、自制が効かなくなるほど田添を苛立たせてきた自覚なら、このところ充分にある。爆発する事が確実に分かり切っているので、お互い何事も無かったみたいに、このところその話題には触れずにきたが。
「……何もお前が知って楽しい事はやっちゃいねぇよ」
 そしてこのところの言い癖で、楠原は嘘だけは付かない程度に、収めようとしてしまう。
「……そんな答えで退くとでも思ってるのか?」
 もちろん田添には通用しない。色味を見れば思いっきりで、心配されている。
(話して。話してよ。ねぇ話してってば!)
 実際は女の子言葉ではないのだが、間近に迫ってくる色味の力強さやひたむきさを、あえて言葉で表そうとしたら。
(一体何やってるの貴方、隣で見ていてこのところ、危なっかしいのよ!)
「いい加減でしつっこいぞお前。そんなに知りたいってんだったらな」
 張り合いでは既に負けているので、あえてにっこりとした笑みを作り上げながら言ってみた。
「撒かれずに付いて来いよ」
 田添の両肩から力が抜けて、ホッとしかけたもののまだ襟から手は放されていない。両目を閉じてうつむいて、唇も噛み締めた田添の、顔や首筋がみるみる赤くなっていく。
 それどころか、効果があり過ぎたらしく真っ赤を超えて、鬱血したようにどす黒くなってくる。
「おい。おい田添。そこまで怒るなよ。血管切れるぞ」
 困った。今自分が何を言っても火に油だ。
「貴様ぁ!」
 カチリ、と音がして、二人揃って目を向けた先で、部屋の扉が端まで大きく開き切った。
「喧嘩かい?」
 廊下に行燈を手に立っている女将と、その後ろから下宿仲間も二、三人、部屋の内を覗き込んでくる。
「あ……」
 他人の目が、それも複数人分入ると田添は、恥じた様子で手を放した。まずは女将一人が部屋の内に足を踏み入れてくる。他の部屋での騒ぎなら普段は勇猛に怒鳴り込んで行くのだが、今回は驚きが先に立っているらしい。
「楠原くん、と田添くんが、珍しい」
「すみません。ちょっと今日は……」
「話が、合わなかった」
 外套を取って立ち上がり、
「失礼。頭を冷やします」
 と女将の横をすり抜けて、田添は部屋を出て行こうとする。とっさに楠原は
「ごめん」
 と言い掛けたが、
「黙れ。今は聞く気がしない」
 と振り向きもせずに返されて、語気はそれほど強くなかったけれども、楠原は身をすくませた。
 楠原とは英文科の同輩で、翻訳のアルバイトを請け負っていながら字数ばかりを稼いで原稿料をせしめようとするので、「それ仕事になってねぇだろ」と楠原からちょくちょく苦言を呈されている、細川ほそかわという者が、わざとみたいに苦笑を響かせながら、
「おばさん。お取り込み中を邪魔しちゃ悪いよ」
 などと言ってきて、
「そうした冗談はアイツが本気で嫌がるからやめてやれ!」
 思わず叫んだ文言が、部屋の内と外とで二人分重なった。
「気が合ってんじゃないさ」
 女将は呆れ気味に呟いたが、その直後に唇の端を曲げて、吹き出しそうになるのを堪えていた。無遠慮に笑い出した細川にも、「こら」とたしなめる声を掛けている。
「仲が良いってのをからかう奴があるかね」
「仲が、良過ぎるんですよ。普通じゃない」
「程度で測れて、普通に落とし込めるものかい。細川くんもお友達は大事にしていないと、そのうち痛い目見るよ」
 その間に田添の足音は遠ざかり、廊下の先で玄関戸が開く音がする。その方向を目で追っていた楠原は、部屋に戻ってきた女将にビクついて、女将からもため息をつかれた。
「何やらかしたんだか知らないけど、きちんと謝っておくんだよ」
「今謝って聞かれやしなかったじゃねぇか。おばさんもそれ見てただろ」
「『今は』聞く気がしないって、わざわざご丁寧に言い添えてきたじゃないか。楠原くんもそれ聞いてただろ」
 似通った言い様に、圧を加えて言い返されて、ふくれた感じに楠原はうつむき目を逸らした。次に顔を上げれば正対するだろう位置に、女将は身を屈めて座り込む。
「良い子だよ。田添くんは」
「分かってるよ」
 即返されて思わず微笑んでもいる。
「分かってるから余計にどうも、上手いこと行かないっていうか、根っこのとこで結局、俺とは合わないっていうか……」
「同じ程度に良い子でもなきゃ、初めからつるんでもいるもんか」
 そう女将は笑いかけてくるのだが、それは下宿では良い子っぽく振る舞ってるからな、としか楠原には思えていない。
 今年の春から入ってきた後輩の、今西いまにしが、彼の部屋は二階だというのに楠原の部屋にまでやって来て、
「『また来る』と言っていましたよ」
 と知らせて来たので代わりに送り出してくれたのだと分かった。何せ夜道を歩かせるために灯りくらいは持たせなくては。
「ありがとう」
「ほらね」
 と女将は微笑んでくるが、業務、なのだから田添には避けられない。
「あと、『割腹だ』と」
 それを聞いた瞬間に「あ」とこぼれ出た。
「何だいそれ」
「それだけを言えば楠原さんには分かるって」
「ああ。うん。分かるな」
 素性を探られた事に腹を立てたのであって、白里翁と「その土地」には、まだ気付かれていない事も楠原には、伝わってしまう。
「随分と物騒な単語だねぇ。御一新の、後始末についてでも話してたかい?」
「ああ。うん。そんな感じ」
「そりゃ喧嘩になるよ。あんたたちの喧嘩の原因第一番目だよ」
 木造船に帆船時代の技術が、取るに足らないみたいに侮られて、時代に乗り遅れたならずもの集団みたいに、それも国家から、公明正大に取り扱われていく流れに、先代は耐えられなかったんだろう。仕事や利権を奪われていくのも、自分一人なら諦め切れても、抱えている働き手たちの中でも腹に据えかねた連中が、何しでかすか分からない、ってなったら、取れる手段なんか限られてくる。
 罪や不始末をなすり付けたって、元々自分には縁も血筋も無いような奴なら、痛くも痒くもないし、
 と分かったような気に一旦はなりかけたが、
(それにしては田添は、素直に真っ当に育ってるよな。真っ当が過ぎてかえって普通じゃなく思われるくらいに)
 人なんか殺せそうにないどころか、嘘もつけないしすぐ騙されるし、騙す事も出来ない。もしかすると、誰かきっちり可愛がってくれる人がいて、ただ一方的に利用されてきたわけでもなかったのか。


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→ 罰ノ九 義に絆される

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