それは本当に必要か?
はじめましての人も、
前から知ってる方も、
ごきげんよう。
偏光です。
あえて葬儀の話をする事で、
皆様にも御一考頂きたいわけです。
(文字数:約1900文字)
葬儀というものは、
特に喪主というものは、
人生に一度か二度くらいしか、
経験する機会も無いものだ。
自分の時の経験を教えてくれる人に、
葬儀社や会館スタッフの提案は、
有難いもので基本的には、
そうした意見に従う他なくなってしまうのだが、
余裕があれば、
また違和感があれば、
頭の片隅にでも残しておいて、
自分や身近な人が喪主となった時にでも、
首を傾げてみてもらいたい。
わりと厳格な席次
参列者の椅子並び先頭列は、
喪主を始めとする直系家族と、
決められている。
それは基本的に良いとして、
参列者の焼香の間、
先頭列の人々は、
焼香を終えた方々が向かう壁際に、
男性は立ち並び、
女性は椅子に座って並ぶ事に、
決められていなくてもいいんじゃないか。
と言うのもPL式並びに、
私の故郷の浄土真宗式では、
それはなかったから。
参列者は焼香の前に、
先頭列の人々に向けて、
頭を下げれば良かったから。
遺族に直接声を掛けたい方も、
それはいるとは思うのだけども、
喪主とあと二、三名くらいでいいんじゃないか。
足の悪い方とか、
まだ幼児のひ孫に関しては、
もうちょっと柔軟に対応していいんじゃないか。
あとこの形式って、
直系家族が少ないとかいない人だと、
かなり寂しいな。
野辺送り
わりとビックリしたんだけども、
高野山真言宗ではやるんだよ。
それどころか私も配偶者も、
一員として呼ばれたんだよ。
私は旗を持って振る役目にさ。
他にも行く先に向けて、
小銭を散らす役目とか、
配偶者は不浄を払う房を持つ役目とか、
もちろん直系の家族はその後を、
棺に遺影を運びながらついて来て、
かつてはこのまま火葬の野辺まで、
歩いて行って火葬もしていた、
名残だとは思うけれども、
葬儀会場の入り口広間を、
光明真言を唱えながら、
円状に3周ほど行進する。
ごく個人的には、
昔からの風習を残すの嫌いじゃないし、
あっても良いと思うけれども、
意味分からんで気味が悪い人も、
中にはいたっておかしくないと思うので、
ここでも事前に説明プリーズ。
あと席次の時にも思ったけど、
この儀式って傍系を含む親戚が少ないと、
寂しいっていうか出来ないしな。
家族、という形式も多様になって、
直系か傍系か、といった区分も、
複雑になっている現在においてまでは、
無理してやらなくてもいいような気はする。
喪主が押すボタン
私の故郷の九州の限界集落では、
喪主は男性が務めるものと決まっていた。
妻がいたとしても息子が、
娘がいたとしても娘婿が、
その任に当たる。
なぜだろうな?
とはそれほど疑問にも思わなかった。
私は教えられてもいたからだ。
火葬の炉の点火ボタンを押すのは、
喪主の役目である事を。
それ絶対に前もって言っといて!
「え。僕自分の親なら押せるよ?」
と配偶者(・ω・)は言ってきたが、
「夫の場合にどうすんだよ!(;△;)」
「ああ(・ω・)
僕もゆきこさんなら押せないや」
「そうだろう!
そこを言ってるんだ私は!」
あと押せないんだ有難う(T△T)
「親であっても実際に、
その時の押した感覚は、
わりかし胸にこたえると思うぞ。
私は今日の喪主が気の毒だ!
ってかぶっちゃけそのボタン
いらなくない?
喪主以外は絶対に、
押せないものじゃなくてよくない?
今や炉の防火扉閉めたら、
数秒遅れて自動で点火するように、
作れると思うしそれでよくない?」
「実際僕の父親の時は、
誰もボタンなんか押してなかったし」
「そうだよね!
私お義母さんが喪主だったから、
気にして見てたから覚えてる!」
荼毘に付していた頃であれば、
火を点ける事は喪主としての、
礼儀とか名誉に感じた人も、
いただろうけれども、
ボタンになってしまった時点で、
その辺りの情緒って失われて、
むしろ機械的な残酷な印象が、
強まっちゃってるから、
ボタンの存在を知らなかった人は尚更、
知っていた人も一度くらいは、
正直必要なものかどうか、
考えてみてもよくないですか?
以上です。
ここまでを読んで下さり有難うございます。