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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』地獄ノ四(5/6)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約4000文字)


 新しく屋敷のあるじとなった義視は、先代のように家中に亡霊を見る事は無かったが、自分の部屋に接する広縁と、そこからの庭先に、いくつかの鮮明な思い出を残していた。
 昼間であればそれはくわえ煙草で座り込む姿だったり、夜中にふと目を覚ました頃合いであれば、庭に面した障子戸越しに見える、ふわふわした髪の毛の影だったりした。
「兄ちゃん」
 時折は、話しかけられたその声が甦る事もあった。
「兄ちゃん。ごめんな」
 久しぶりに掴み合い殴り合いの喧嘩をして、眼鏡も壊れたし腫れ上がった頬も痛くて、その苛立ちもあって眠ったふりをしていたが、
「でもオレ、やっぱり母ちゃんは悪くないと思う」
 弟は見透かしているかのように話しかけてくる。
「オレは許す。オレだったら許す。兄ちゃんみたいに自分まで、嫌いになっちゃうとか、オレはイヤだ」
 母がした事の意味も分かっていないくせに、とは思ったが、身を起こした。
「母ちゃんは、いるんだよ。オレの中にも兄ちゃんの中にも。生きてた時のそのまんまじゃないけど、母ちゃんの、優しかったとことか笑ってくれてキレイだったとことか、ずっと、そばにいてくれてるんだ。だから、オレは母ちゃんだけは守る」
 立ち上がり向かって行った障子戸を引き開けると、雨戸を一人分ばかり開けて弟が、広縁に座っていて、暗い中でも自分を見上げている事が分かった。
「あの、言葉は……」
 自分の口からもう一度、繰り返したくはない文言だったので、濁したのだが、
「あれは……、私が、間違っていた。悪かった」
 弟は、いつのどの言葉か分からない感じに、首を傾けていた。振り返り、雨戸の隙間越しの空を見上げて、
「オレが来た事、ナイショな。見つかると土蔵の抜け穴塞がれるから」
「抜け穴?」
 こちらの疑問には答えずに、隙間から抜け出した庭を駆け去って行く。悪さをする度に弟が土蔵に籠められていた事を、義視はその時に初めて知った。
 父も知らなかった。朝から使用人を相手に暴れたと、聞かされた時点では呆れ顔で、
「アイツは今いくつだ」
 と呟いていたが、
「いつも通り土蔵に、今日は自分から籠りに行って、内側から閂も掛けたみたいですね。音が聞こえましたから」
 そう聞くと文机に向かって走らせていた筆を止めた。
「閂……、があの部屋に、あったか?」
「ええ。土蔵の、それこそ蔵の方に」
 ピシッと空気が張り詰めるのを、そばで見ていた義視も息を詰めた。土蔵の元見張り部屋に弟は暮らしているのだから、父としては「部屋に戻れ」程度の意図しかなかったし、義視も当初はそう理解していた。
「え、と……、土蔵に閉じ込めろって、旦那様のご命令、でしたよね?」
 しかし目を伏せて、
「ああ。そうだったな」
 とだけ父は、答えていた。そうした対応を受けてきた者や、命令だと信じてきた者たちに、「そんなつもりはなかった」などという弁明は、今更、何にもならない。
 報告に来た者が出て行くと、部屋には父と義視二人だけになった。その途端、深い溜め息と共に項垂れ、そこから長く黙り込む。正確には数分程度のものだったが、半刻は過ぎたように義視には思えた。
「知っていたか。義視」
「はい」
「いつからだ」
「アイツがここに移り住んで、ふた月後くらいには。私が知ったのは、そこから数年ほど経った頃ですが」
「それもあってお前は、母屋に移すよう繰り返していたんだな」
 違う、と思ったが上手くは言い表せなかった。知った時には義視もその措置を疑問に感じておらず、知った時からも更に数年が過ぎてしまっている。その間、父に確認してみようとも思わなかった。
「笑ってくれて構わないぞ」
「まさか」
 即座にそう答えたが、もしかすると父は本当に、笑ってもらった方が気が晴れたのかもしれない。主から冷遇されている者だ、という感覚は、使用人たちからも義視からも、そう簡単に消え去ってくれるものではなく、
 自分たちは弟を、虐待していた、と自覚したのは、弟がこの家を離れてしまった後だ。
「誰か! 殺される! 助けてくれ!」
 思考を破られて、溜め息をついた。庭園の方角からの、桝機の声だ。
 眠りを覚まされなかっただけ良い、と冬でもあり別段緊急にも思わず、上着を着込んだ上で泰然と出て行くと、
 庭園では弟が、使用人の一人に羽交締めにされ、その正面からまた別の者に殴られていた。
「よぉ、若旦那」
 こんな状況である事が目に映らなくなりそうな、晴れやかな笑顔を浮かべてくる。
「なぜ、ここにいる」
「ちょっと夜道を散策」
 人を馬鹿にしたような物言いに、また弟の頬には拳が飛んだが、続け様に食らわせようとするのは止めさせた。
「まず状況を、説明してくれ」
「夜中に忍び込んで桝機様を、襲いやがりました」
 見れば桝機は芝生の上で、助け起こしてくれる使用人たちに寄りかかり、ぐったりと目を閉じている。こちらも頬が腫れ始め、口から流れ出た血が着物の襟を汚していた。
「警察に、突き出しますか」
 どちらかと言えば桝機の側から何かしら出て来はしないか期待して、義視は
「致し方ないかな」
 と呟いたのだが、耳にした弟はうつむいた。
「……兄ちゃん」
 そう聞こえるが早いか闇夜を切り裂くような、鋭い音が鳴り渡った。
 皆が耳を押さえ「何だ?」と怯んだ隙に、背中側の者の腕を払い当て身をくらわせて、拘束を解いて弟は駆け抜けて行く。
「なっ……! この野郎……!」
 男どもがその後を追って走ろうとするが、
「追うな!」
 と何時になく険しい主の声で、大方は立ち止まった。
「もういい。そのまま、逃がしてやれ」
「なぜだ義視! 私がこんな目に遭ったというのに!」
 さっきまで、とても動けないほど弱って見えた桝機が、ずいぶんと威勢良く身を起こす。集まって取り巻いていた使用人たちも、キョトンとした様子の後で、呆れ顔になった。その流れに気付いて桝機も口をつぐむ。しくじった、とは受け止めているらしい。
「桝機兄さんは子供の頃から、相当アイツをいじめてきたんでしょう」
 溜め息混じりに義視が言い掛けると、ギョッとした様子で見上げてきた。
「な、何か、聞かされているのか?」
「いいえ」
 それを聞いてホッとした様子だが、
「聞かされて、いませんよ私は。何にも」
 当主から、冷たく見下ろされて目を逸らす。何事かはあった事を、打ち明けてしまったようなものだ。

 月明かりの下を駆け抜ける、二つの人影があった。片方は時折笑い出し、その度に前を行くもう一人から睨まれて、笑いやめては「ごめーん」と謝ってみせている。
 笛を吹いたのは田添だった。聞き慣れていたので楠原だけがとっさに動けた。現場で突入の合図に使っていたのだから、条件反射だ。
 追手もいなくなり、屋敷からも相当離れた、川沿いで田添は足を止めた。月に星々が賑やかな空とは異なり地上には、いつも二人が渡る橋の欄干に沿った街灯の、点々と続く灯りだけが目立っている。背を屈め息を整えていたところに、
「助かったー。ありがとう、田添ぇ」
 満面の笑顔で駆け寄られながら、差し出された楠原の手は、
「ふざけるな!」
 とまず叩き払った。
「仕事も放り出して、どこに行ったかと思えば!」
「病欠届けは、提出したよ?」
「『コレラに罹りました』なんて理由が、通ると思うか! それならばなぜお前は、立って歩いて表に出られて、事務局に、手書きの書類を提出できている!」
「あはははは。もう理由なんか、どうでも良かったもんだからさぁ」
 楠原が、笑い続けるので田添は尚更、腹が立つのだが、
「何を、掴んだのか知らんが、あんな屋敷、俺たちの管轄外だ! しかも見つかって、囲まれるなんて、この間抜け!」
「ごめん。ごめん本当に、心配かけた」
 怒鳴り掛ける文言の律儀さに、妙なおかしみを感じて、笑い続けずにいられないらしい。甲斐が無いので田添は、取り出した自分の煙草に火を点けた。
 吸い始めの煙の美味さで内実は、自分の働きに、満足している事を自覚する。吐き出した煙越しに見やった楠原は、まだうつむいて細かく揺れ続けている。
「それにしてもお前……、あんな屋敷で一体、何をしていたんだ?」
「ああ……」
 呟いた声色に目を凝らす。
「本当に、俺……、何してたんだろうな……」
 言葉と一緒にボロボロと、涙が湧き出してはこぼれ落ちた。
 そのままその場にゆっくりと、うずくまり田添の足元で、「ふえぇん」と声を上げ泣きじゃくり始める。
「田添ぇ……。俺……、お前が大好きだよぉ……」
 ふむ、と田添は頷きはせず呟いた。
「俺には男女問わずそうした嗜好が無い」
「そういう、意味じゃなくってぇ……」
「だろうな。お前は知っているはずだ」
 顔を上げ涙で濡れる様も隠さず、楠原はしゃべり続ける。
「お前が……、いてくれて良かったって、言ってんだ……。今だけじゃなくてこの一年間、ずっとぉ……。これまでの、どっかで死んだりとかしないで……、生き続けといてくれて、俺は……、嬉しいんだってぇ……」
 田添は黙ったままもう一服煙草をんだ。 
「俺、お前にだけは、触らないよぉ……。お前って、なんか、すごいからぁ……。お前には、なるたけ今のまま、変わらずにいといて欲しいから……。下手に触って何かを変えちまうとか……、怖いからぁ」
 ちょっと斜め上を見て田添は、また足元に目線を落とす。
「無理だ。人は必ず変わるものだ」
「言葉通りに……、聞いてんじゃねぇってぇ……」
「俺としては、大した変化が見られない自分を、情けなく感じているんだが」
 まだ幾分か残っている吸い殻を、揉み消して携帯の灰皿に納めながら、足元の楠原から地面へと輪郭も鮮明な影が伸びるほどの、月の明るさを意識した。
「まぁ、泣け。人は、泣いた方が良いからな」
 ふ、と口元に笑みを浮かべてもいた。


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