【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ六(3/4.5)
明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。
(文字数:約2300文字)
楠原が抜けた後の二人部屋を、松原はこれ幸いとただ一人で使っている。
「先輩も、居残り組でしたか」
「おう。俺の実家は、あってなきが如きものだからな」
とは言え部屋の中央に、本を枕に寝転がっていた様子に、入って来た田添に身を起こしあぐら座りになってからも、まるで一人で使うのが本来であるかのような、空間に対する体積の占有具合だ。たとえ人間的には嫌いでなくとも、楠原には、耐えられなかったに違いない。
文机から所々薄汚れた灰皿を持って来て、畳にじかに置き、楠原と同じ銘柄の煙草に火を点ける。何せ安いもので学生と言えばまずコレと、相場が決まっているが。
襖紙の引き戸を端まで閉めて、松原の対面に正座した田添が箱を取り出すと、笑みながら灰皿を寄せてくる。通じないのならこれも付き合いだと、田添も一本取り出した。
銘柄はともかく相対して煙草をくゆらせる田添に、松原は満足気だ。
「お前とサシでじっくり話が出来るのも、こんな折くらいだろ。どうだよ田添」
呼ばれて田添は目を上げた。声は違うがしゃべり口は楠原に似通っている。
いや。楠原が寄せている。おそらくは手本にして。
「驚いたか」
吸い入れた息をゆっくりと吐き切るまでの間を開けて、田添は答えた。
「いいえ」
「なんだよ。相も変わらず淡白な野郎だなぁ」
「阿川さんからも聞かされていましたし、日頃二人で行動させられているので、ある程度は自分でも」
手入れ業務と入れ替わりで増えてきた、夏場の業務で田添は、上層部がなぜわざわざ私学への編入を許してまで、楠原を残して来たかを思い知った。
楠原がスコップを差し入れる度に、元赤子であっただろう肉塊が見つかる。
地域への清掃奉仕と称しての、ドブさらいの現場でだ。上層部の方が腹の底では薄気味悪がりつつも、他に頼みたい業務も控えているので、せいぜい気を遣った笑みを張り付かせていた。
「それに驚いている余裕もありませんでした」
次には船に乗せられ、川を進まされた。
失踪か行方不明か、食わせるに困って突き落としたかは知らないが、供述書に記載がある人物を、川の内に見出せないかと言うのだ。
(分からない)
が送られる度に田添は、隣から
(受信)
を送り返した。
「自分は適度に抑えておく役目だと、心得ていましたから」
もちろん真実に(分からない)わけではない。楠原が主張するから流用して使い回している信号の、本来の意味は「助けて」だ。
具体的にどう見えているのかまでは分からないが、さぞかし厭なものだろう事くらいは察し切れる。
「頼もしいねぇぞえちゃん」
小刻みに揺れる煙混じりに松原は、笑ってきたが、
「そのアダ名はやめて下さい!」
昨年の、同じ役目を担っていた事を思えば、ただ愉快なだけの笑いでもないだろう。
「そんで? 夏休みの間アイツはどこに行くって?」
さも当然のように松原は問うてきたが、
「知りません」
と田添の方でも当然のように返した。
「……なんでだよ」
案の定松原はこめかみに青筋を立ててきたが、怒鳴られる事が予期されるくらいでは、田添は動じない。
「素性に関わる事だと察しましたので」
「だから……! 言葉通りに何もかも受け取ってんじゃねぇって!」
「二種類の系統で命令に、矛盾が生じた場合、自分はより大元の命令を遵守します」
友達ではない、と田添は認識している。楠原はもちろん、阿川とも松原とも、自分は仲間でも、本来的な意味合いの先輩後輩の間柄でもない。
「廓に定期的な支払いが必要な、今の時点ではまず逃亡の畏れも無いでしょう」
誰かが規律を乱せば連帯で責任を負わされる状況では、傍目にどれほど馴れ親しんで見えたところで、互いの監視要員でしかない。
電車が新橋の駅に着いたその時から、雷が鳴り出し土砂降りの雨になった。
楠原は駅舎の戸口を一歩内側に、立ち止まったままで外を眺めている。
日盛りの間モヤモヤと舞い上がった砂煙を、洗い出し押し流すような夕立で、常人でも見通しが利きにくくなるのに加えて楠原の場合は、屋根や地面を打ち付ける、鋭い色味も重なってくる。
はじけ散って視界の全体としては、薄ぼんやりとした光の層になって見える。
風雅な景色とでも言えたかもしれない。日頃から外に出歩いて立ち回らなくても良い立場であれば。
「私、足抜けの話を聞かされた時、姉様かと思いました」
夕闇が迫り行灯に火を点しながら、小鈴が言ってきた。
「あら。どうして?」
静葉は宵に約束したお客に合わせての化粧を造っていた。
「姉様の事を色々と、調べているお方がいらっしゃいまして」
鏡から顔を上げ、小鈴に向けた口調に目線はいささか厳しいものにならざるを得ない。
「それであんた、まさか教えているんじゃないでしょうね」
しかし小鈴は行灯のすぐ横に、居住まいを正して、
「教えてます」
とさも楽しげな笑顔を広げてくる。
「まぁ嫌だ。およしなさいよそんな真似」
鏡を置いて襦袢を引きながら静葉は、小鈴の前まで歩み寄った。
「一体誰だか。気味の悪い」
「でも、姉様もお気に召した方でありぃすよ?」
差し込まれて浮かんだ面影には、心が揺れ動いたが、
「こら」
と小鈴のこめかみ辺りを指先で、はじいた程度で済ませた。
「生意気言ってんじゃないの。あんたなんかにまだまだ、私の心根が読み取れるもんですか」
それだけですぐ鏡に戻る様子に、「ふふ」と小鈴は含み笑いしている。
「もうおやめなさいよ」
「あい」
と答えながらもその笑顔は、さらさらやめる気などなさそうに見える。