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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』地獄ノ二(4/5)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約2500文字)


 酒膳を整えて部屋を辞した小鈴を、閉じられた襖の先を、しばらく見据えていた楠原が、盃に口を付けながら呟いた。
「娘を取られる気分だな」
 ふふ、と静葉はつい笑みをこぼした。
「あんなでかい娘がいるような年でもねぇけどよ」
 盃が空いたところにすかさず、酒をさしながら、
「あの子はね、楠原さん、花魁に憧れてるのよ」
 言葉も掛けて酒の量には、それほど気が行かないようにさせる。 
「意味は、分かってんのか?」
とおはいくつか過ぎたもの。それなりにね」
 勧められれば静葉も盃を受ける。チビチビいったりクイッとあおったり、楠原の呑み方に、調子の変わり具合にももちろん、気を配りながら。
「でも、そういった事よりあの子は、年頃になって連れて来られたわけじゃなくて、ここで生まれて育ってここが性に合って、ただ純粋に、美しくなりたいのよね。だけど、私の気持ちも分かってくれる。良い子よ。あの子は」
 目を伏せたまま静葉の話に、聞き入っていたかと思えば、喉の苦味を押し流したいみたいに一気に、盃を干す。
「だから、分からないわ。私の人生で、他の誰かの人生は測れないし、そうした事はきっと間違ってると思うわ」
 酔いの進み具合を見計らって静葉は、身を添わせに行く。
「本当は、どうしていらしたの?」
「本当は……」
 間近に目を見合わせると、今更照れた様子で言い淀む。
「あんたに、その……、頼みがあって……」
「頼みって、何? 言ってごらんなさいな」
 ふふ、と楠原はつい笑みをこぼした。
「尚更言えねぇなぁ」
「あら何よそれ」
 ふふふ、とこぼし合う笑みにも酔いながら、銚子を空ける頃合いにもなると、
「ひざ枕……」
 などと囁かれて「はいはい」と、静葉も盛大に甘やかしてやる。静葉には背中を向けて横たわり、着物の上からでも太ももを撫でる手の動きに合わせて、ふわふわした赤茶色の髪を撫で下ろす。
 他所からの三味線の音がこの部屋にも届いてくる。
「夜になると……」
 言い出されて静葉は髪の毛を撫でる手を止めた。
「母ちゃんの、苦しそうな息遣いばっかり、聞こえてたんだ……。うなされたりとか、オレに、さわれなくて悲しんでたりだとか……」
 髪に触っていては彼が思い出す気持ちの邪魔になる、感じがした。
「真っ暗で、怖いとか言うよりもそっちの方が……、母ちゃんが、何で苦しいんだか分かんない、分かりたくないって方がよっぽど、怖くて……、泣き出して、オレの髪の色が母ちゃんビビらせたりするのも怖くって……。
 ああオレこの人の前で泣いちゃいられねぇなって……」
 ひと通り、聞き終えたらまた髪の流れに沿って撫で始める。今度はむしろ積極的に、邪魔をする心持ちで。
「人って、その、昼日向の、明るい所でじゃどうにかギリギリで正気、保ってんだ。夜になったら、真っ暗な所でただ一人きりになったらもう、イチコロみたいな、おしまいみたいなとこあって、そういう状態の奴っていて、実は結構ざらにいて……、外からじゃ、外側からじゃそういうのって、どうにも出来なくて……、だから」
 そこで吐き出された長い溜め息の、終わり際には涙が混じり込んだ。
「俺には夜の方がまだ全然、明るいんだ」
 しかし気付かれたくないみたいに、手の甲で目元を拭っている。
「明るく、見えてたんだ俺には。嘘みたいに思われるかも知んねぇけど」
「嘘だなんて、思わないけどええ、そうなのね」
 とは言え静葉の方では言葉の通りに、見えていた、とは思わなかった。太ももから離され持ち上げられた手を取ると、思っていた以上に強い力で、組み合わせてくる。
「繫ぎ留めといてくれないか。静葉」
 静葉は組み合わされた手指の、力が込められ白く見える部分に、目を落としていた。
「俺を、あんたに、繋ぎ留めといてくれ。怖いんだ。身が、引き千切れて今ここにいる俺が、どっか遠くに行っちまいそうで、怖くて……」
 引き伸ばされ白くなった自分の肌に比べて、そこに食い込んでくる楠原の指先は、ずいぶんと赤く血が通って見えるものだと、聞こえてくる言葉にはそれほど気が行かないようにする。
「俺は、あんたがいい。あんたのそばがいい。あんたのそばであんたの顔、ずっと見ときたい。俺は……、その方がきっとよっぽどいい」
「楠原さん。貴方……」
 呟き出すと涙が浮かびそうになったので、静葉は一旦顔を逸らし、目元を拭いながら吹き出す形でごまかした。ここでお互い涙を見せ合えていたなら、この先は、また違う流れになっていたかもしれないけれど、少し背を丸め笑みを浮かべながら耳元に、囁きかける。
「貴方今、気になってるお方が、いるんでしょう」
 背中が少し、しかし確実に強張った。 
「……そんなんじゃねぇよ」
「好きなのよ。だから怖いのよ。今まで知らなかった勢いに、飲み込まれて流されて行っちゃいそうになる、自分が」
「俺は……、そんなのは要らねぇ」
「誰だって要らないのよ。でも、取りついちゃうの。見た目は汚らしくこびり付いて、そこからどうしたってそう簡単には、引き剥がせなくなるの」
 背中を押して男の身を膝から転がし落とすと、静葉は立ち上がり鴨居に掛けてあったとんびを取りに向かった。憮然とした様子で身を起こした楠原の、鼻先に翻して、
「さ、気が済んだなら引き上げて頂戴。そしてもう二度と、お店には来ないで」
 言い切ると楠原の方では、戸惑って自分のとんびであるのに手に取りかねている。
「前にいらした時は貴方、そのつもりだったはずよ」
 ここにきて繰り出されるのかと、女の側の怨みの深さを思い知らされる心地にもなったのだが、そこを詰れるような立場に、楠原はいない。
「きちんと言葉にして言い交わしていれば良かったわね」
 とは言え僅かにでも笑みを浮かべてくれるだけ、大変に有難いと言えた。受け取ったとんびを立ち上がりながら身にまとうと、自分の姿は明らかに場違いで、居たたまれずに部屋を出たものの即振り返り、
「静葉」
 と声を掛けずにはいられなかった。部屋の内には戸口に背を向けて座り込む、女性の姿があるきりで、
「静葉、俺な……」
 渡せる言葉なども思い付けず、襖を閉めていくしかなかったのだが。


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