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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ九(4/5)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約4200文字)


「さ……、寒いな……」
 すっかり身体中が冷え切ってしまったが、それによって意識が戻った。
「俺も、馬鹿だな。頭悩ませるにしてもこんな、寒くて暗くて小便臭い、場所じゃねぇだろ」
 軽口を叩きながら立ち上がり、先刻まで行く手を阻んでいた壁には背を向けて歩くうちに、冷え切って固まった手足にも、血が通って次第にほぐれ始める。
 今いる場所が何処であるのか、さっぱり分かってもいなかったが、道に地図なら広範囲で頭には入っているので、四半時ほど歩けば見知った街路にたどり着く事が出来た。
 そのうちに空が白み出し、鳥の声が聞こえ始め、人はまだ起き出していないものの、犬や猫なんかは路上をうろつき始める。そうしたものを眺めながら意識せず笑みを浮かべているうちに、下宿にたどり着き、夜の間は楠原は、女将も誰も起こさないよう音も立てずに忍び入る。
 自分の部屋にもこっそりと入り込み、とんびは長持に投げ出して、端に丸めて置いてある布団にもたれてしばらく呆けていたところで、起き出してきたらしい女将が、台所で味噌汁を作る音が聞こえてきた。
 あの母屋はいつも静かだった。きっと毎朝の、こんな物音なんか届かない。
「なんだ。俺ぁ結構恵まれてたんじゃねぇのか?」
 独りごちながら楠原は眠りに落ちた。顔には笑みを浮かべてもいた。
 従ってその日の朝食は食い逃したのだが、朝から楠原の様子を訊ねにやって来た、田添に代わりに振る舞われた。田添は断る術も無く完食した。

「……さん。ねぇ楠原さん。起きて」
 揺り起こされる間も楠原は、久しぶりに心地良かった眠りの、延長のように感じていた。
「ん。ああ。静葉」
 そして目を覚ましてからも心地良いままだ。田嶋屋の廻し部屋で、待たされていた間に夜も更けたらしく、静葉が手に持った行燈一つきりしか、灯されてはいないが。
「貴方って、本当に図太いのね。普通この時間までほっとかれたら、怒って帰っちゃうのに」
 呆れ顔の静葉は化粧も落として、厚手の綿入りだが長襦袢を着ている程度だ。今夜の仕事をあらかた終えたところで、様子を覗きに来たらしい。
「帰って欲しくてわざとほっといたのか?」
「違うわよ。そうじゃないけど……」
「じゃあしょうがねぇさ。それに……」
 行燈は引き取って屏風のそばに寄せ置いてから、静葉の身に腕を回す。
「今日はどうしてもあんたに会って、ちょっとで良いからあんたの顔、見てから帰りたかったんだ」
 普段の化粧は落としてあったって、静葉は元の造りから綺麗だ。
「あんたにだけは話すって、前に約束してあった事、今聞かせられるだけの合間はあるかな?」
 瞬間だけふわっと困ったような色味は浮かんだけれど、
「ええ」
(どうにでもなるわ)
 と伝わったから、そのまま抱き寄せながら話をした。
「俺は、妾腹の次男でさ。母親が亡くなってからは父親が居る本宅に、引き取られたんだ」
 静葉の方でも抱き取られたまま、半分聞いていない風情を出しながら、だけど耳を傾けていた。
「兄貴は長男だから母屋で大事に、後継ぎとして育てる。お前は家に入れる気がしない。庭の隅っこの離れで一人で、使用人として暮らせってよ」
「まぁひどい。そんな邪険にするんだったら、そもそも作らなきゃ良いのに」
 何気無く言った風な言葉が、クッと引っかかる。
「それが、そうだったんだよな。親父は作っちゃいなかったんだよ」
 本当に何気無く言ってしまった様子で、静葉はかすかに息を飲んだ。
「そんな事情だから俺は、贅沢言えた義理でもないよな。屋敷の内に住まわせてもらえて、学校行かせてもらえる時点で有難く、感謝してなきゃならねぇ話だ。だけど、拗ねてたんだな。恨んでた。親父がそんな感じに扱うから、屋敷の連中も使用人たちも、俺を軽んじて何もかも、雑に済ましてくれるんだってな。親父がどう扱おうと関係ねぇ。俺なんざ、生まれた時から犬小屋の犬でしかねぇってのに」
 ふわっと浮かび出た色味が、怒っているように感じて、不思議だったけれど、
「だけど、そもそもが妾だろ? 自分には家柄もよろしい本妻がいて、妾の側には貞節を守れって方が、無理な話だよな」
 言い掛けたら「そうよね」と同調して、ちょっと溜飲を下げたように見えた。
「それだったら俺、心当たりがあるって言うか、ガキの頃米屋とか納豆売りの後ついて回って、向こうからもやたら可愛がってもらえてたから、アイツらのうちの誰かだったら、嬉しいし小気味良いかなって、学生の身で夏休みなんかもあるもんだからよ。ガキの頃の俺の家に住み込みで働いてたおばさんが、今は横浜で暮らしてるって聞いて、会いに行ったんだ」
「ああ」
 と静葉は夏の頃の、楠原に覚えは無くても語られたらしい内容を思い出す。
「おばさん、元気だったけど目を相当に悪くしてて、俺が話しかけると嬉しそうに、兄貴の名前呼んできた。ああ、でもまぁしょうがねぇなって。家の人安心させるために俺、大学の名前、今通ってる私学じゃなくて入学してちょっとの間しか通ってねぇ、官立口にしたもんだからさぁ」
「官立にいたの?」
「意外だろ? おばさんもそりゃ、俺がまともっぽく成長して官立に行けるだなんて、想像もしてなかったんだ」
「意外、だけどその、振る舞い方の問題じゃなくて?」
 静葉の白い腕が伸びて、今は閉まっている襖を指差す。
「官立の学生って普通、このすぐ横の廊下通されただけで、怒り出すもの」
 そうなんだ、とは思ったけれど、楠原にとって特に有益な情報でもない。 
「まぁ、だから俺おばさんには、そのまま兄貴のフリ続けて、兄貴の立場から、兄貴が俺見てたら言いそうな事口にして、その時点で腹の内がどっか気持ち悪くもなってきてたんだけど、
 さも心配しているみたいに、弟の、ってか俺の、父親が誰なのか聞き出して、おばさんは、初めのうち断っていたんだけど、ずっと誰にもしゃべらないままってのも、しんどかったんだろうな。あの子、ってか俺にだけは、どうか聞かせないでくれって、念を押されながら話し出されて俺も、今更引っ込みとかつかなくて……。
 言っちまうと、まぁ、よくある話だよ。御一新の頃には、それまでの殿様とか上役とか何もかも、ひっくり返ったわけだから、仕事にあぶれた連中が、あっちこっちで暴れまくって物騒で、武家が抱え置いてた妾なんか、妾だって、知られてるだけに尚更だ。
 うん」
 と最後に呟いた瞬間に、楠原の頭がカクリと落ちて、腕からも力が抜けたけれど、より静葉の身に寄りかかっていっただけだ。
「分かってた。オレ。母ちゃんオレにやさしいけど、いつも笑っててくれてるけど、オレのこと、だっこだけはしてくれねぇなって」
 重たげに持ち上げた右の手で、ゆっくりと髪の毛を掻き回す。
「オレのこの、気色悪い色した髪の毛にだけは、母ちゃん絶対に自分の手では、さわろうとしないよなって。嫌な事思い出すから。すっげぇもう思い出すのも耐えられないってくらいに、気色の悪い、嫌な思いにさせられたから。
 本当は、オレがなんにも考えずに寄り付いて行って、いきなり目の前にこの色飛び出て来たら、叫び出して突き飛ばしてしまいそうなくらい、嫌だってのに、無理して頑張ってオレのすぐ隣にまでは近寄って、一生懸命に笑ってくれてるんだ。
 本当は、『どうしてこんな色なんだ』って、近所の人たちから訊かれるたんびに、胸の中ザクザク突き刺されて血が噴き出してる気分なのに、『どうしてかしら』って笑うんだ。そばにいる、オレにまで気を遣って。
 そんなの、長く持たないぞって。ずっと、苦しいまんまで身体とか、ちょっとずつ弱ってくってオレ分かってたのに、言えなかった。そりゃあ、だって、言えるわけねぇじゃねぇか。俺の側から『嫌ってくれていい』とか、
『本当は腹の中で思ってるまんま、嫌がって突き飛ばしてくれていい』なんて、そんなの嘘に決まってるから……!」
 涙を落とし出した楠原から、静葉は一旦身を離して吉野紙を手渡した。受け取って涙を拭く楠原の、正面に何も言わずに座っている。
「そんな嘘、つかれたら母ちゃんの方が、余計に傷つくって苦しいって、オレ、頭悪いけどさすがに、そんくらいは分かるから。案の定、母ちゃんまだ若いうちに、身体壊して死んじゃってだけど、親父は泣きもしないんだ。
 親父は、泣かずにいられるんだ。そりゃあだって、親父が死なせたわけじゃないから。オレが、死なせたんだからそっからオレが憎まれるのは、当然で」
 何も言わないままで静葉は、長襦袢の襟に帯周りを握り合わせていた。
「母ちゃんは殺そうとしたんだって」
 握り合わせた手や指に力がこもってもいた。
「オレが、腹に出来た時点で絶対に、産みたくないって。自分も一緒に死んじまうつもりで、なるたけ強い薬、飲もうとしたんだけど……、それを止めたのは親父なんだって……。
 自分の、子供として、兄貴とも兄弟みたいにして育てるから、大丈夫だって。母ちゃんが生きてた間、母ちゃんの目の前でだけは、だったけど、人それぞれに善意ってもんにも、限界があるよな。
 先日、亡くなったんだけどもよ。亡くなる二、三日前の、まだ意識とかしっかりしていた間に、会えて、話が出来てさ。すげぇ、久しぶりだった。久しぶりに俺の顔見て笑って、俺の名前、呼んでくれた。
 家にいた間は『おい』とか、『そこの』とかで、済まされてたってのに、俺の名前呼んでそれで、謝ってくれた。『許してくれ』って言われて俺も、頷いて、だけど」
 さすがに黙しかねる様子で、静葉は口を開いたのだが、
「遅ぇよ、って腹の内では俺、毒付いてたんだけどな」
 顔を上げて来た楠原の目線とぶつかって、口を閉ざした。
「遅ぇんだよ全然。あと、図々しいんだよそんなもんで、こっちの気持ちはちっともスカッと、晴れ渡るわきゃねぇだろって、だけど、あの野郎俺からすっかり許された気になったまんまで、死にやがった。ざまぁみろだ」
 泣きながらにでも笑っている楠原の、口元に合わせて笑みを浮かべてもいる。
「でも、まぁ、亡くなっちまうそん時くらいは、そんな風にも思い込ませてやれた事だけは、悪かねぇよな」
「ええ」
「うん。きっと、悪くねぇ」
「うん。そうね」


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偏光
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