【小説】『規格外カルテット』10/10の上のb
正式名称の方がかえって口に出す事を許されるという恐怖。
(10回中10回目の上のb:約5000文字)
「ご両親が、彼に対してあまりにも冷淡に過ぎるようで気になっている。彼はどうしてあれほどまでに、嫌われなければならなかったんだろう」
そして話し出されると存在感が出る。
「服装にしゃべり方には理由があったし、奇行、に思える振る舞いが、多少あったとしても仕方がない。PTSDだ。もっと早いうちに適切な対応をしていれば、今頃は復帰できていたかもしれないけど、適切どころか、彼をただ追い詰める方に向かっている」
女性の二人はついオブラートに包み込んで、雰囲気で把握しようと努めてしまうところを、男性は真っ正面から追及するし話題によってはその方が良い。
「その……」
カップを持つみるの手が震え、もっと重たい物を置いたみたいに皿の上で、ガチリと鳴った。
「違うんです。兄が、追い出されたのは……、何も競技や事故とは関係が無く……、いえもしかしたらそれも、関わっていたのかもしれませんけれど……」
うつむいてカップの中と言うよりも、そこを通り越した記憶を見詰めている
「病院での、治療が進んでリハビリも上手くいって……、通院での自宅療養に切り替わった頃に、その……」
目を固く瞑って首を振り、
「すみません。これだけはその……、兄の、名誉のためにも……」
顔も手の内に深く覆ってしまった。
「いや今更何聞いたってビビらないよ私は。何も犯罪起こしたわけじゃないだろうし」
「それが、その……」
震わせつつ顔から放した手を、胸の前に組み合わせている。
「犯罪、なんです。それも、かなり重い……」
一度顔を見合わせると、咲谷と蜂須賀は、むしろみるが座る壁際の席に詰め寄って行く。咲谷がみるのすぐ隣に移り、蜂須賀が窓側の端。内容が内容だけに二人とも、小声になる。
「それが本当ならみるさん、僕は聞かないわけにいかない。彼の担当だし彼とは今後、家族になるんだから」
「そうだよ。こっちだって会社に後輩が関わってんだよ」
うつむくみるの腕を取り、顔を上げてきたところに、咲谷は自身でも思いがけなかったほど優しい調子で囁きかけた。
「何やらかしちまったんだか知んないけど、償い、みたいなもんがまだ済まし切れてないんだったら、私が尻叩いて、きちんと終わらせるまで付き合ってやるから」
聞いていた二人は改めて、彼に対する想いの深さを知った。前々から気付いてはいたけれど。
「ありがとう、ございます……。それでは、お話しないわけにも……」
蜂須賀に促されて紅茶を、ひと口飲んで、カップを置きうつむいたまま語り始める。
「実家に、戻ってからの兄は、やはりしばらく家にこもりがちで……、以前からの友人たちともあまり、会わなくなり……」
みるもかなりの小声だが、聞いている二人は身を詰め寄せているので支障は無い。
「部屋に、一人でよく……、怪しげな本を読むように……、そうした環境が良くなかったと思うんですけど、ある晩……、その……」
胸の前で組み合わせていた手を、強く握り合わせて言葉に詰まる。
「自らの、手でっ……、その……」
「大丈夫?」
「水は」
首を強く振り断って、意を決したらしく一つ頷き、先を続けた。
「自分の、そのっ……、ペニスを取ってつまり……、射精を……」
全てが固まり時が止まったような沈黙の後で、まず蜂須賀が口にした。
「ごめん。言っている意味が良く分からない」
次いで咲谷が口を開く。
「それってつまり……、オナ」
「いやぁっ! やめてお姉さま! 禁じられたその名をお唱えにならないでっ!」
両手で耳をふさぎながら上げられたみるの顔は、真っ赤になっている。
「まさか……、本当に?」
「おい正気かよ」
「そうした行いは全て! 正式に結婚した男女が子孫を残すために! なんて言い方はお姉さまの前で私も今時信じてなんかいませんから、愛し合う二人が更なる絆を深めるために、などと言い換えても構いませんけれど! 愛する誰かもいないままに、ただ自分だけで自らを、慰めるなんて……! ああその時ばかりは兄は、悪魔に憑かれていたに違いありません!」
ちょうど悪魔に魂でも抜かれたように、蜂須賀はがっくりと肩を落とした。
「ちょっと、一回落ち着こう。うん」
咲谷は額に手を当てて、努めて冷静な口調を作っている。
「お嬢ちゃんその、『怪しげな本』、ってヤツは、どんだけの代物だったか分かるかな」
「分かりませんそんなものは!」
「ああそりゃそうだ。あんたは見ていないだろうけども、親父さんなんかからちょっとでも、こう、何かヒントみたいなもんは聞かされなかったかい」
「そんな。私もそのような話は、耳になんて……」
しかし思い当たる事があったらしく、「そう言えば」と咲谷を向いた。
「ちょっと横を向いたウサギさんの、お顔のシルエット、みたいなマークを見せられて、『可愛らしく見えてもこれは、退廃のシンボルだよ』って、父から……」
「なんてこった……」
額をのけ反らせた咲谷は壁で少しばかり頭を打った。
「教科書じゃないか……!」
蜂須賀はうなだれたまま苦り切った声で呟いている。
そして二人ともみるのそばで、墓穴の底にでも落ち込んだみたいに、黙り込んでしまった。
あまりの二人の沈みように、みるは恐れを成し、改めて兄の犯した罪の重さを、思い知った気でいたのだけれども、
「蜂須賀ぁ」
「何でしょう」
地獄の底から一歩ずつ、這い上がるみたいな声が湧き出す。
「私今頭の中で、思いっきり言葉選んでんだけどさぁ」
「ええ。僕もどうにか、違った言い方が出来ないものかと」
「だけど、もんっのすっごくでっかい言葉が一個、ど真ん中にこう、ででんとあって、あ、こりゃもうコイツ口に出さなきゃ収まりがつかねぇなって感じ、してない?」
「全くもって、同感です」
「んじゃ行くか」
「はい」
「せーの」
二人揃って身を起こし、みるに向かって吐き出した。
「かわいそうだ!!」
咲谷は激怒しているし、蜂須賀は号泣している。咲谷はともかく蜂須賀の泣き顔など見た事が無かったみるには、この光景自体が信じられない。
「おかしいと思ってたんだあの野郎、若いうちから抑えに抑え込んで溜めに溜め込んできた性欲、私で晴らしにかかってやがる! おい誰か特別手当てくらいよこせ!」
「むしろ誉めてくれ! いや違う! 面と向かってじゃない! 陰ながら微笑ましく見守ってあげてくれ! そういった事が出来るようになるまでに、回復しかかっていた彼を!」
そしてみるの様子に反応など無視して、二人で言いたい放題だ。
「そりゃ中坊の頃から単身外国に渡ってまで何かに打ち込みたくもなるぜ」
「咲谷さん。彼の栄光の歴史を、そんなざっくり」
「何が栄光だ。中高生男子の部活動なんざ、ほとんどが性衝動の発散だろうよ」
「まぁその要素は否定できませんが」
「だから過去の実績なんざ誇るなっつってんだみっともない。ははぁん。道理でアイツ、ただ使わせてやるよりは視姦に言葉責めの方が、異様に大喜びしまくってたわけだ」
「本領発揮じゃないですか。相性が合うはずですよ」
「お姉さま! 兄のそういったお話は聞きたくありません!」
「お前も良くこの子のバージン奪えたよな」
「奪っていません。奪う形にならないようにそれはそれは苦労を重ねて持っていったので」
「大さん! お姉さまにそういったお話はお聞かせにならないで!」
「お嬢ちゃん」
ようやく咲谷が気に留めてくれたものの、ソファー席の隣から、やたらと間近に顔を見合わせて来る。
「そういったお話はだねぇ、それはもうありとあらゆる様々な事を、色んなお方々が手を変え品を変え、工夫を凝らして毎日毎晩飽きもせず、やりまくっていやがるんだ。ああ。だけど、あんたの周りでは聞かないね? 誰も話しちゃこないよね?」
「はい……」
「そうだろうね。何でかな? 本当に、全く、やっていないから? 神様とやらに畏れをなして、罪なんかをひしひしと感じて、言えずにいるのかな? いやいやいやいや」
ひとしきりの苦笑の後、豊かなバストが際立つほど胸いっぱいに息を吸い込むと、みるには至近距離で怒鳴り付ける。
「わざわざ他人様に、お話する事じゃないからだよ! てめぇら一家人間様気取りやがるんだったら、ちったぁ頭使って言葉の裏側にあるもん汲み取りやがれ!」
そしてみるの隣を立ち上がり、一旦ソファーコーナーも出て気を静めたいらしく通路にいる。隣が空いた分をみるは、蜂須賀に近寄ってすがり付きに行く。
「怒られてる。私今、すっごく怒られてるわ大さん。だけど、どうして怒られているの私よく分からないわ」
「みるさん。悪いけど僕も、弁護できない」
「大さん!」
「だって、僕もやってるから。一人で」
バグを起こしそうになったがみるは、とりあえず堪えた、ところに目を見合わせての追い討ちが来る。
「普通に。昨日も」
現時点までのみるにとって、その事実は困った事に、浮気以外の何物でもない。
「どっ……、どうしてですかぁ……! 私がっ……、私という者がありながらぁ……!」
真っ赤な顔に大粒の涙をこぼしているが、蜂須賀はそんな様子にも慣れてしまっている。
「みるさん。ここだけは本当に、ただそういうものだと受け流してもらいたい」
普段と変わりの無い落ち着いた調子で語りかけるだけだ。
「正直に言うと君にも少し勧めたい」
「勧、めるって大さんっ! 何て事を!」
「いやらしい意味だけじゃなくて。冷静に、一つの考え方として、聞いて」
そして蜂須賀から「聞いて」と言われてしまうと、黙って耳を貸してしまうクセが、みるには染み付いてしまっていた。
「自分の身体の事も知らなくて、どうやって自分を大事に出来るの?」
黒い目を見合わせながら言われれば、頭で理解が出来なくてもハッとして分かった気になってしまう。
「自分を大事に出来なきゃ僕は、君の事も大事に出来ないと思う」
蜂須賀の方は微動だにしていない。表情も落ち着いたまま変わっていないのだが、白井みるの方は両の手で熱くなった頬を覆ってキュン死にしそうだ。
「おい。今からここに、シンの奴呼び出すぞ」
とスマートフォンを手に咲谷が戻って来たので、二人はソファーの壁側に移って並んだ。兄の名を聞くとみるは途端に熱が冷めた様子で、目も伏せがちにうつむいている。
「咲谷さん。それはちょっとまだ、早いんじゃ」
「何言ってんだ。その程度の下らねぇ理由だったら、スパッと会ってスパッと話して終わらせろよ。ったくバカバカしい」
もちろん咲谷も、みるの様子に気が付いていないわけではないが、こうした事は勢いに任せた方が良い気がするし、実のところ今日はそのつもりで二人を呼び出したのだ。多少の無理は承知の上、とは言え気遣う視線をみるには投げた。
「構わないよな。お嬢ちゃん」
ビアンとして結構鳴らしてきた咲谷からの、理性を殺しそうな流し目を送られる格好になったみるは、思わず急激にときめいてしまったが、先ほどの蜂須賀へのときめきが残っているものと、自分には言い聞かせる事にした。
窓際の席で幸い、周りのテーブルには客もいない、とは言え咲谷は耳に当てて使う。
「シン? 今どこ? ああ。こないだ連れてったラーメン屋、分かる? その向かいのファミレス。そうそこ。今から来られる? じゃ、すぐ来て。出来るだけ早く」
蜂須賀とみるも何となく、黙ったまま耳を傾けている。
「え? 怒ってねぇよ別に。いや。今すっげぇしょーもない話聞かされて、イラついてるだけで。ん?」
咲谷の顔が一気に赤くなった。
「はぁ? おい言っただろ今、ファミレスだぞ。え。ってだから、人前だって」
顔を見合わせて壁際の二人は澄まし顔だ。回線の向こうから今どういった事を言われているのか、何となく分かる。
「……分かったよ。小声で行くからな。耳の穴スピーカーにぎっちり、押し当てろよ」
そう言うと咲谷は、表情も作り替え、空気が多めの声と言うよりは息を使って囁き出した。
「急に……、カラダが火照って会いたくなっちゃったの……。ねぇシン、お願い……、早く来てぇ……」
そしてスッ、と表情を消すと回線を切った。
「ハイパートレースで駆けつけるってよ。トレース、って何の事か分からないけど」
「パルクール用語です」
「ああ。だと思った」
「コースらしいコースがありませんので、ルートは自ら見付け出すんです」
もう冷め尽くしたアールグレイを、みるは香りだけで飲み干した。
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