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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ一(2/4)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約4000文字)


 明治二十年代の東京は、「東京市」、つまりまだ一地方都市に過ぎなかった。
 自分達の選択や行動が、後の世に、国家全体の歴史として伝わり、研究や分析や、批評の対象になるなどとは、とりわけ市井の者達は想像もしていなかったに違いない。
 開国、という華々しい謳い文句に誘われて、異国の文物が概念が、感覚が次々と乱入し、文明開化の熱狂がようやく落ち着きを見せ始めた辺り。かつて身近にあった品々は、粗野だ陳腐だと嘲笑われ、叩き潰され、流れに乗り遅れる焦りに駆られて掻き集めては安値で売り払い、気が付けば家には手元には、何も残っていない。
 そんな親世代を横目に見ながら育ったのは、江戸を知らない子供達だ。物心付いた頃にはすでに開国していたのだから、熱を込めて語られてきたような、開国の喜びも有り難みも知らない。そもそも本当に有り難かったのかすら疑わしい、などと腹の底では冷めた瞳で笑いながら、開国後の民法で、成人と定め置かれた二十歳になった。
 成人、と定められてしまった以上は、仕事に就く必要がある。親世代がよほどの裕福で、学業や洋行にでも専念させてくれない限りは。そうした親世代は、戦続きの江戸末期にそこからの二十年間を、運良く上手い具合に渡り切った、ごくごくひと握りだが。
「御免」
 言いながら引き戸を開け入って来たその男は、背筋を伸ばして土間に立ち、絵に描いたような居丈高に見えた。
「はい」
 とこの下宿屋の女将は、まっすぐ伸びる廊下を玄関へ、小走りに向かいながらも小首を傾げている。怖れ畏まるべき相手にしては、帽子の下に覗いている頬も顎も、ヒゲが無いつるっつるだ。
 着ている物こそ黒いキャスケット帽に、同じく黒のインバネスコート、当今の若い男が揃いも揃って着倒している、通称「とんび」だが、普段使いに色を抜きながら着崩していくのが流行りだというのに、たった今上京しましたと言い出さんばかりの漆黒を、折り目も正しく整えている。
 懐から取り出したこれも黒い表紙の手帳を開き、ひと重の眼をその面に落としたままで訊ねる。
楠原くすはら大喜だいきの下宿に間違いは」
「ええ。ありませんけれど……」
「結構」
 閉じた手帳を懐に戻し、黒い革靴を、両手も添えて丁寧に脱ぎ揃えてから、家に上がって来る。玄関から正面に伸びる方ではなく、右手側に折れる薄暗い廊下に向かって立ち、
「帰るまで、待たせてもらう。部屋は」
 顔も向けずの命令口調に、女将の方ではまず呆れ返った溜め息をついた。
「その前に、あんたはどこのどちらさん?」
 再び懐を探り取り出した、二つ折りの厚紙を開きながら、
「こういう者だ」
 と女将の鼻先に突き出してくる。
 官立、後に言うところの国公立大学の、校章が入った学生証だ。しかも生まれ年を見れば二十歳そこそこ。はっ、と女将は思わず鼻で笑った。
「学生なら学生らしい口の利き方をしてきちゃあどうだい。末は博士になる気だか、大臣になるつもりなんだか知らないけど。こっちはまた警察でも踏み込んで来たかと思ったよ」
 警察、と聞いた瞬間男の眉間にはシワが寄ったが、帽子の固いツバに隠れて、女将の目には見えない。
「無駄話に興じる予定は無い。部屋を」
 右手に続く長い廊下には、玄関側に面して取っ手を引き開ける形の扉が、四つ並んでいる。そこへ歩み出そうとする男の前に、女将は立ちはだかって腕組みした。
「楠原くんとは? どういった御関係?」
「それを申し上げる必要が?」
「あるね。大有りだよ。学生ったって国元の親御さん達からお預かりした、大切な子供達だからね。ワケも分からないような客通して、実は借金取りだったり、リロンだかシソーだかでもめてたりして、ここで喧嘩沙汰にでもなられちゃたまんないよ」
 女将が早口にまくし立てる間、男はうつむいて目をつむり口を全く開かなかったが、ひと流れ終わって間が生じた途端に、目を開け顔を上げて返してきた。
「そうならないよう日夜連中を監督しておくのが、下宿屋のあるべき勤めだと思うが」
「はぁ?」
「はぁ、とは」
「何言ってんだい。うちは部屋貸して飯食わせてやって、掃除洗濯は要らないかって、訊いて回って要り用ならやってやるだけで、手一杯さ。勤めなら十二分に果たしてんだよ。これ以上は金はずまれなきゃお断りだって、お疑いならあんたが一日でもやってみるがいいさ」
「負担なら人手を増やすべきだ。俺が一日程度代わったところで、焼け石に水だろう」
 まともに聞いていないのか、もしかすると文言通りに聞き過ぎているのか、話が伝わらない。侮られているようにも感じて女将の声色は、ますますとがっていく。
「ってか何者だいあんた。いきなりやって来て『監督』だの『連中』だの。挙げ句は他所の勤めぶりにケチまで付けて。本当に学生なんだろうね」
「先ほど学生証を提示した」
「あんなもん、盗んできたかも分かりゃしない。まして密偵イヌなら簡単に作れるだろうからね」
 なぜ分かった、と伝わりかねない勢いで目を向けたが、幸いにして女将の方で見ていなかった。廊下の奥から二番目の扉が、カチャリと開いた音に続いて、
「あぁ。やっぱり田添たぞえだ」
 と渦中の彼の声が、飛び込んできたからだ。
 私学校、後に言うところの私立大学の、英文科で学んでいる、楠原大喜。鳥の羽根を思わせる、ふわふわと赤茶色の髪の毛が、
「すげぇ。お前が直接こっち来るなんて、思わなかった」
 部屋の内からはみ出したかと思ったら本体ごと、歩み出て来る。へらへら目を細めて笑いながらの、足元は裸足で、羽織に袴も身に着けてはいるのだが、寝間着代わりの木綿の上に今しがた巻き付けて出た風情で、どうにもだらしがない。軽そうな髪の色も手伝って、浮わついた者に見える。
「居たのか。家に」
「ああ。朝からずっと」
 言いながら大きなあくびを打つついでに、両の拳も突き上げて思いっきり伸びまでした上で、「悪い」と苦笑してくる。「今起きたとこ」と打ち明けたのを、「もう昼だってのに」と女将からたしなめられている。
「ならばなぜ、会合に出なかった」
「ええ? やだよぉ俺、あんなとこ出られるわけねぇじゃねぇか」
 廊下を脇に逸れた女将は、向かい合う二人のちょうど相中に立ち、それぞれが口を開くその様子を眺め始めた。
「俺以外の、ほとんど皆が官立だろう。つるし上げ食ってるようなもんだって」
「寮を出て他所への編入を決めたのはお前だ。誘いがあるだけ良しとすべきだ」
「だからだよぉ。松原まつばらさんが周りにペコペコしてるとこなんて、見たかねぇって俺」
「見せられたんだ俺は。日頃より余計に。愚痴も随分聞かされた。お前のせいでな」
 黒尽くめの事務処理口調で、薄気味悪く思えていた来客が、顔にも声にも少しずつ、感情を乗せ出してくる。頭身が整っていて威圧感もあったために、長身に見えていたが、楠原と向かい合ったところを気を落ち着けて見れば、結構な小柄だ。女性の平均的な身長になる女将と同じ、もしかすると女将よりも低いのかもしれない。
「お友達なのかい?」
 訊かれて楠原は「ああ」と、女将を向き笑ってくる。
「田添、慎一しんいちってんだ。松原さん繋がり」
 田添と呼ばれた彼の方は、身の全体を楠原に向けたままだ。
「ただの、知り合いだ。俺は友達になどなった気ではいない」
「良いんだよぉその辺りは適当で。そんなもん、おばさんにはどうだっていい話じゃねぇか」
 女将を向いたり田添を向いたり、楠原の、背中に首の動きだけが忙しない。
「待て。松原さんと面識が?」
 女将に訊くべき事柄まで、楠原に向かって問い掛けている。
「あぁ。あの人面倒見良いからさぁ。ここにもきっちり挨拶に来て、時々様子も気にしてくれんだ」
「それを知っていたなら話が逸れる事無く済んだものを」
「逸れる前に話自体してねぇよぉ。お前の場合さっきから聞いてたら」
 へらっ、と適当くさく笑うので、ただ聞いている分にはそれほどにも感じないのだが、田添はクッとこたえた様子で口を結んだ。
「悪いなおばさん。心配かけて。世間一般の愛想ってぇもんに、どうも馴染んでねぇんだコイツ。親父も叔父さん連中も、皆軍人って家系の長男でよ」
 お前、と何やら言い出しかけた田添の、帽子のツバを取ってまずは目をふさぐように引き下げた。
「おっ……、おいっ!」
「ほら帽子くらい取れって! 人んち訪ねに来た時は!」
 はずみを付けて取り払われた、帽子の下は、短く切り揃えた黒髪を油できっちり撫で付けてあり、何の意外さも面白みも無いのだが、女将はプッ、と吹き出した。さらされてみれば確かに、若い男で、のっぺりした細面の顔立ちにひと重の眼がつぶらに光っていて、せいぜい意地を張って見せていた居丈高だったように思えたからだ。
 吹き出した女将に気が付いて、目を逸らしうつむく様子もいじらしい。
「とんびも普通脱ぐんだよ? 軍服とか制帽じゃねぇんだから」
 返された帽子を胸の前で、手の内に抱え、
「俺はむしろ礼儀にかなった仕方かと、思っていた」
 と呟く様子も女将には、おかしくてたまらない。笑い続けそうなのをこらえるあまり、耳の際が赤くなっている。
「来るんだったら前もって言っといてもらわねぇと。ここの下宿じゃお前、お前んとこの寮よりますます浮いちまうよ」
「普段から浮いている前提で言うな」
 廊下を奥へと歩む二人のやり取りに、息も合っているみたいだと、女将はすっかり気を許してしまったので、その後は当初の違和感も忘れ、楠原の友人で時折訪ねに来てもおかしくない者だと、覚え込んでしまった。


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