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【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』地獄ノ二(5/5)

 明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。

(文字数:約2600文字)


 小鈴に頼んで呼び寄せてもらった人が来るまでの間に、静葉は化粧を整え造り込み直した。
「失礼します」
石蔵いしぞうさん」
 戸口に座ったまま入ろうとしない彼に、身振りも交えて許可を出す。他の人には見られないうちに、部屋の内に入り戸も閉めてもらった上で、
「楠原さんのお代、立て替えなすったんですって?」
 切り出すと「へ?」と石蔵は目を見張った。
「いや。まぁそういった建前に……、なってはいますけど」
 溜め息を聞かせて静葉から、
「私、支払うわ」
 と差し出した封筒を、
「いやっ……! 良いですよそんな!」
 と石蔵はずいぶん慌てて押し戻してくる。
「静葉さんが気にする話じゃないですって!」
「今、玉割りでしょう。お店の人にそんなの、良くないって言うより意味が無いわよ」
「そうじゃなくってですね。ああぁなんだってアイツ、逆向きの見栄張り倒すんだろうなぁ」
 観念した様子で顔を寄せ、声を落としてくる。
「ここだけの話、アイツの家べらぼうな大金持ちっすよ」
 静葉は驚いた様子も見せず、
「妾腹の次男……」
 とまず呟いたので、
「知ってんじゃないすか。やっぱり、静葉さんも」
 と石蔵は茶化す空気を出したのだが、緊張が、ゆるむどころか張った気がしたので頭を掻いた。
「昔からの、お知り合い、だったの?」
「ええ。まぁガキの時分はね。言っちまうと俺アイツんちの、使用人の息子、なもんで」
「あの人も、使用人として育てられたって」
「ああ。まぁある程度はねぇ。だけど、本物の使用人に比べたら」
 笑い出し手首まで振って見せていたのだが、静葉がついてこないので笑いやめる。
「……って感じで、使用人勢とも芯からは打ち解け切れねぇから、ひねこびながら育っちまうのもしょうがないところはありますけど、今からだって、その気になりゃあアイツ、家に戻れるはずですよ」
「その気に、なれないんでしょうね」
 そう呟いてきた声の重さに、引きずられた様子で数秒ほど、斜め上を見てから頷いた。
「その辺りの、理由みたいなものは何か、聞かされてる?」
「いえ。俺がつるんでたのはせいぜい、初等科くらいまでで」
「十を少し過ぎたくらいまでね」
 本当に子供の頃だと会得された様子に、「はい」と石蔵の方は笑顔になる。
「向こうは俺の事覚えちゃいねぇだろうなって、思ってたんですけど、アイツ、時々こそっとガキの頃の呼び方してくるんで。まぁ娑婆の話は廓じゃ言いっこ無しですからね」
「時々子供に戻るのよ。あの人」
 そこで向けられた静葉の眼差しが、ガチリと合って石蔵は声を飲んだ。
「石蔵さんもそれ、見てるでしょ?」
 思い当たる事ならある様子で、「あー……」と長い相槌を打つ。
「見てますけど言っちまうとその……、そういった『お遊び』なのかなって」
「私も、そう思っていたんだけど、多分本当に戻っていて……、その間の事は忘れちゃうんだわ。だから……」
 言いながら目を伏せていき静葉は、目を閉じて、数秒ほどの間を空けた。次に開いた時にはずいぶんと、きっぱりした目の色になっている。
「私は何て事も無い。ただ子供になつかれただけね」
 石蔵は、斜め上を見たり頭を掻いたり、首を傾げたりと、どう答えるべきかをしばらく考えあぐねていたが、
「すみません。その辺りの事は、俺からは何とも言えないっす」
 結句降参してきたので静葉は「いいのよ」と微笑んで済ませた。

 吉原の、大門を離れてしまうと闇の中を、楠原は灯りも持たず、酒にも酔ったままで歩いていた。
 歩けるはずがない。足取りが覚束ない有り様を、周りにいた側が避けながら、時に舌打ちを聞かせながら通り過ぎてくれる。それを一応は立ち止まらず、うずくまりもせず道沿いに進み続けている限りは、歩いている、とひとまとめに言うしかないだけだ。
 静葉から、断たれた事はきつかった。身の内にかろうじて残っていた、明るい部分までもが一つ一つ、音も無く消えていくようだった。見えていない、となると、先に何があるのか分からない。
 どこへ向かえばいいのか分からない。
 分からないなりに両脚は動き続け、身の全体を運び続ける事を、不思議に思った。何に引き寄せられ、何を求めて動かされているのか、自分でも分からないのだがとにかく歩み続けてはいる。そもそも物心ついた時から自分の身体を、自分の意思で動かしてきた実感なんてあっただろうか。
 泣かされて歩かされて進まされて覚えされさせられて笑わされて登らされて黙らされて壊されてバラバラになって、バラバラになってそこからも、結局ちょっとずつ寄り集まって、また動けるようになっていくしかなくて、何のために、と考える以前の何かが、間に挟まっているとしか思えない。挟まっている。そう。繋がる、ほどの強さも無い。そこに仕方なく、あるだけの何か。
 いくつ目かの角を曲がった先で、橋のたもとの詰所からの灯り一つに照らされて、女が一人立っているのを認めた。
 春駒だった。
 ひと仕事くらいは終えたところなのか、今夜はまだ誰も引っかけ切れずにいるのか、紙巻きの煙草に火を点けてくゆらせてくる香りはそれほど上品じゃない。自分が日頃吸っているものと大差ない。
 首をめぐらし路地角から出て来たとんび姿に目を留めて、頭のてっぺんから足の爪先までを、ひと通り眺め渡しながら値踏みしている。今夜はコイツでしょうがないか、とでも、聞こえて来そうなほどあからさまに。
 なめやがって。
 酒に、酔っていたせいにしてしまいたかったが血が沸いた。よし、と心の内に一つ頷く。あの女を、買おう。
 何、金ならある。田嶋屋で大方を吐き出しても、街娼を一人ひと晩買い込めるくらいには。
 それで何か恥になるのか。何が今更改めて俺の恥になるんだ。誰もが暗い中ではやっている事を。誰を相手に、どの立場かで、畜生あの女なら、俺は街に現れ始めた最初から知っているんだ。
 橋に向け歩みを進めようとした脳裏に、一人の顔形が浮かび上がった。ゾッとして思わず振り返った背後に、人影や気配を探し求める。
 アイツだけは嫌だ。アイツに見つけられるのだけは勘弁だ。アイツにだけは、絶対に、こんなところ見られたくない。
 夜の闇の内には誰の姿も見出せなかった。残念なのか安堵してなのか、溜め息が出る。
 後は身の内で彼に恥じないかどうかだった。


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→ 地獄ノ三 己を知る

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