【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』地獄ノ二(2/5)
明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。
(文字数:約2500文字)
日頃から、決して良い心持ちではいない顔見世も、冬場は一層切なさが増す。格子の隙間から吹き込んでくる北風に、降り込む小雪。人気もまばらで寒々しく見える街路。中を覗き込んでくる人たちの、冷え込むどころかこちら側の胸の内が凍て付くような、冗談に目線。
「ねぇ。ねぇ、姉様」
隣に座る妹分の、菊鹿の側から袖を引かれ、静葉が目を向けると、
「あちら」
と菊鹿は自分の目線を格子へと移していく。釣られて見やった先には、楠原がいた。
ゾクッ、と寒気が押し寄せたためではなく身震いした。途端に身の内が熱を持つ。楠原の方でも何かを探し求めて熱っぽく目を光らせる様子が、目当ての顔を認めてゆるむ。
「静葉」
ふわっと笑みをほころばせながら、静葉の正面まで身を移してくる。遣り手のお母さんが咳払いしたけれど、聞こえなかった事にした。
静葉の側からも身を寄せて、格子越しにではあるけれど、間近に顔を見詰め合う。言い交わしたい言葉はあっても今のこの場では言い出せずに、ただ眼差しだけを貪り合って、男の指では二本ほどしか通らない格子の隙間から、差し入れた指先も静葉の手指に絡ませてくる。
答えは決まっていたけれど、それでも訊かずにいられなかった。
「……お入りに、なる?」
「いや」
近寄せた目線が伏せられるだろう事も、口に出す前から、分かり切ってはいたけれど。
「ただあんたの顔が、見たくてよ。それだけで」
「おい兄ちゃん。いつまで自分ばっか貼り付いてんだよ」
「入るんだったら入るで、とっととどけよ」
野暮な男どもの声をぶつけられて、「じゃ」と笑顔は見せたものの、名残惜しそうに一本ずつ指を、ほどいていく。
ゆっくりと格子からは手を離し、腰を落ち着け座り直して行く静葉に、顔見世の内側は静まり返った。
「いっ……、いやーっ!」
空気を読めないお調子者はどこの世界にもいるもので、うら若い菊鹿の黄色い声が、静寂を打ち破る。
「姉様ってばもう、見ている私の方が真っ赤になっちゃって、イヤだわ私ったらウブでもないのに」
他の娼妓たちがそっと嗜めるのも気にしない。気付いていないのか気付いた上で、わざと静葉と張り合う気でいるのか。
「あのラブさんすっかり姉様に、惚れ込んじゃってるわぁ。ねぇ、どうなさるの姉様。あの方これから、どうなさるおつもり?」
「どうって……、変わらずお馴染みの一人として、扱うだけよ」
「あら。冷めてるんだわ姉様って。でもきっと、その方が男の方なんかは夢中になっちゃうのね。でも私とか、あんな感じに言い寄られちゃったらどうしましょう。きっと困るわね。ねぇ姉様ぁ」
「煩わしいだけよ」
そう吐き捨てた静葉の言葉に、声色の重さに、さすがに菊鹿も黙り込んだ。
「静葉さん! 静葉さん!」
ちょうど女将の呼び声がして、
「はぁい」
と救われた心持ちで静葉は、顔見世を出た。
パシン、と最後に鉛筆の尻で、地図を叩くと、楠原は文机の脇に縮こまりに行く。入れ替わりに田添が地図に向かい、楠原がいた位置に座り込んで、
「ん」
と窓際に目をやった。
安煙草に火を点けて楠原は、吸い始めの苦笑いを見せてこない。それどころではないらしい、と地図を眺めていれば察しが付く。
腕組みしてしばらくを考えてから田添は、口にした。
「それほど問題は無い」
それほど、と楠原の口元で繰り返されたが、田添にとっては考えた上での事実だ。
「多過ぎる、と思って俺の方で、差し控えていた情報もある。これまでの、流れから掴み取れる部分もあるだろう。上に報告する分量は、大して変わらない」
ほうっ……、とした長い溜め息と共に、壁を向いた楠原は、手の甲で密かに顔周りを拭っている。泣いている事くらいは田添にも察せられたが、何も言わず今分かるだけの情報を手帳にまとめていく。
「見えなく、なった」
「そのようだな」
「もう元にも、きっと、戻らない」
「ああ。結構な事だ」
「良いのかよ」
心外だったらしくまだ濡れた目で振り向いてきたが、田添は顔を上げて目線を受け止めるだけだ。
「これまでが、見え過ぎていたんだろう。人などはその程度で充分だ」
真顔のまま冗談を言っている様子も無い。
「むしろ現場で気付けなかった事が悔しい」
それには楠原の方がクスッときた。
「田添ぇ」
「何だ」
「この国、滅びるよ」
「ああ」
と手帳から目も離さず呟いたところを見ると、田添の方でも動員されていた中で、何かしら思うところがあったのだろう。
「当然だろう。そもそも完成されてもいない」
そこでまた楠原にはクスッときた。
「おい。おいってばよ。あんた」
とんびの上衣を引かれて振り返ると、田嶋屋の、いつも店先の伏せた大樽に腰掛けている奴がいた。立って歩いて街中に出回っている様子を見るのは初めて、な気がしたがそうでもない。これまでにもどこかでは目にしているのだろう。
「この辺うろつき回ってんだったら、うちの店寄りに来ちゃあどうなんだい」
よくある客引き、にしては腕組みで言い様も不機嫌そうだ。とは言え楠原にもそう出られる心当たりはある。
「もう来るなって……、そっちから言ってきてたんじゃねぇか」
「ああ。そりゃそうだけど! ……見ちゃいられねぇんだよ二人とも! あんたとかよりもずっと、静葉さんの方が!」
名前を出されると辛いらしく、かえって店の方からは目を逸らす。
「静葉ももう俺が来ないって事は、分かってくれてると思うし」
目を伏せて、客引きの顔も見ずに呟いたが、
「そりゃあんたの方はな。顔見世覗きに来てちゃ一緒だろ」
と客引きの方が、溜め息混じりで容赦が無い。
「あんた、あの静葉さんがだよ。ここんとこどうして顔見世なんぞに座り込んでると思ってる?」
言われて察したように顔色を変えたが早いか、
「頼む!」
と客引きは、両手を打ち鳴らすように合わせて同時に、頭も下げて来た。
「お、おい。なんだよ急に」
「俺からも、この通りだ! ここは一つ、静葉さんを助けると思ってくれ!」
「助けるなんて……、静葉相手に俺が、そんな言い方出来るような筋合いじゃねぇんだけど……」