【小説】『姦淫の罪、その罰と地獄』罰ノ三(3/4)
明治時代の新米密偵、楠原と田添の一年間。
(文字数:約4500文字)
吉原が実質として維持保存されている事は、諸外国からの非難をそれほど強くは受けなかった。国の保護を失ったのであれば、それは国民の自由であり、商売の自由であり、自由は近代社会を活気付かせるものとして大いに奨励され、結果としてそれなりの金額を積めば、居留地などにも娼妓が呼べる。
病気の診察が義務付けられている吉原は、より安全だと外国の者からも定評があった。
一方で非難が集中したのは、吉原並びに岡場所といった区域からも外れ、自主営業している街娼達だ。個人単位、夫婦単位で営業し、馴染みの娼家や隠れ家はあっても、基本的に管理は受けていない。それこそ自由な自主管理で、妊娠したなら堕ろし棄て、病気に罹れば罹りっぱなし。衛生的にも人倫的にも堕落し果てた存在であると、実態はともかくとして責め立てられた。
吉原にまとわり付く嘘や誤魔化しをくらますように。国中で巻き起こっている混乱の責任を押し付けるかのように。
結果、国は街娼撲滅を宣言し、ここ数年で密偵は増員された。庶民は一旦さておいて主に街娼や娼家の調査に当てられている。何せこの一年で、国はある程度浄められ、諸外国に向け一層開かれたものに変わっていかなければならない。
地図に向けた指先を、田添は一旦引っ込めて自分の顎に寄せた。
「これは……、カエルか?」
「ほぇ?」
ちびた煙草を揉み消すと、両手と両膝を突いて楠原は、地図の上を田添が指差した辺りまで這い進んで行く。
「あ。これ、な……。カエルか。うん」
顔を上げ田添に向けたのは、随分ゆっくりした瞬きだ。
「これ。この地図オレたちだけで、使っていいんだろ? 誰に見せなくたって、いいんだよな」
「そうだな。阿川さんと松原さんくらいにしか」
「二人にも見せないでほしいんだよ」
困ったように眉を下げた表情に、首を傾けた仕草が、妙に子供っぽい。ふざけてでもいるのかと田添は少しイラッとした。
「なぜだ」
「うにぇ?」
「必ず見せろとは言われていない。見せずに報告する事も、出来るとは思うが、その分俺には手間が掛かる。余分に手間を掛けさせるつもりなら、まずはそうしたい理由を言え」
「リユウ。リユウって、えーっと……。あれ? どこだったっけ」
実際にどこかぼんやりしている。煙草が合っていないんじゃないか、と田添はイラ立ち紛れに根拠も無さそうな事を、口にしかけたが、
「ああ。これだこれ。ふふふふ」
へらっ、と細められた目に、戻った、ように感じた先で、楠原がにんまりした笑みを広げてくる。
「俺が使うから」
何かのきっかけで、感情がいきなり最大値まで振り切ってしまう質だと、自覚しているから田添は、きっかけを作らないように、生じたとて気を落ち着かせて紛らせ切れるようにと、日々心掛けているのだが、
「お前も女連れ込むなら、ここだぞぉ」
「ふざけるな!」
今回ばかりは効かなかったようだ。言葉はともかく声色が、ゴボゴボ腹の底から湧き出す感じに沸騰している。地図も片膝で足袋の裏で踏み付けて、間合いを詰めた楠原の胸倉を、両手で掴み取りに掛かったが、
間近に目を見合わせた楠原は、ぞえちゃんこんにちはー、とでも聞こえてきそうな感じに頭を下げた。ぺこりと。それもまた火に油を注ぐ。
「俺達の、職務は何だ」
「何だっけ」
「連中を取締り、東京市内から、いや日本国内から、いやこの世の隅々からまでも、叩き出す事だろう!」
「そうだった?」
「『そうだった』?」
クスッ、と楠原が吹き出した事で、田添は怒りを更に増幅させても、仕方が無かったはずだが、
「ごめん。ちょっと面白かった。いやお前じゃなくてその、そういった訓示長々と聞かせてくれた、おっさんもいたような気がするけど」
たはたはと力の抜けた笑い声を、聞かせてくるせいもあって、怒りが突き抜けない。向きが逸らされてぐるぐると、腹の内に回ってくる。
「俺、話半分で聞いてたっていうか、あんなもん、まさか本気で出来ると思って聞いてる奴も、ここにゃいねぇだろって」
「ああいないだろう。今はな」
目の前の楠原に刺さらない分、怒りは今関連する別のものへと向かった。
「だが百年後、一千年後には必ず、ああいった恥ずべき行為により金銭を搾取しようとする連中は、殲滅させられる! いや殲滅しなければならない!」
「おいサクシュとか、センメツとかっておい」
「アイツらは、ゴミだ」
一拍唇が結ばれて、たはたはした笑い声も止まった。
「人の生き血を吸うシラミ、世を食い荒らすウジ虫だ! 毒を健全の男子に撒き散らし、精神を、錯乱に陥れ平然としている!」
「いや何もそれ、アイツらだけのせいってもんでも」
「お前も、先輩達もだ! 世の男共は皆が皆、脳を壊されているだろう!」
必要以上に怒り過ぎ、言い過ぎている自覚は田添にもあったが、何せ生まれてこの方二十年に渡り、誰に打ち明ける事も無かったどころか、言葉に変えられるとも自分の口から表に出せるとも、その機会がいつか訪れようとも考えていなかった感情だ。
「はっきり言っておくが楠原、俺は、生業如何に関わらず、女という生き物がこの世のありとあらゆる生き物の中で、最も、他の何よりも、嫌いだ!」
言い終えると途端に気が抜けたらしく、両肩を落とした。うつむいた額に手を当てて、少し落ち込んでいるようでもある。
楠原はぼんやりして見える黒眼に、口もぱかんと開けたまま、田添に向けゆっくりとした瞬きを、二回、三回繰り返した辺りで声に出した。
「男が好きなのか?」
「その言い掛かりを付けられるのが尚更不愉快なんだ!」
「おばさんとはまぁそこそこ普通にしゃべれてるじゃねぇか」
「『下宿屋』だと、自分に言い聞かせているからな!」
「お前だってなんだ持つべきもんは持ってんだろ」
「使った事は無い!」
「うわ徹底してるな」
笑われていない、事に田添は気が付いた。笑われるはずだと思っていたから、尚更鋭敏に。
「年齢性別に関わらず、生殖並びに生殖に準ずる行為の一切が」
「生殖。っておいはっきり言っちまうと、かえって凄味が」
「俺には不快なんだおぞましいんだ吐き気を催すんだ! ああおかげさまで自前の男性器は機能しないが、それがどうした! その事が俺個人の人格を資質を、勤務能力を判断する上で、何の妨げになると言うんだ! 無論俺も、考えたくもないが、女陰から生まれ出たに相違無いが」
「女陰。まぁ良いやもう何でも。そんで?」
「だからこそ自らの血肉に骨身までもが気持ちが悪い! 俺はむしろ木の股から生まれたかった!」
「同感だな。木の股からは生まれて来ねぇから困るんだ」
笑われていない以前に、気にされていない。淡々と日常会話のように、流されている。
そもそも信じてもらえるはずもなく、笑われたり怒られたり、見下されたりが妥当だと田添は、予想していたのだが、同時に予想が通じなさそうな予感もあった。楠原はどうも自分の予想を、超えてくる、というより予想など遠くかけ離れた、ワケの分からないところからやってくる。
「話を混ぜ返すな。さっきから」
「え。混ぜ返したの? 俺が?」
「つまりお前は、自らの職責を顧みず、職務によって得た情報を悪用し、業務上犯罪とされている行為に手を染めると、言ったわけだ。今ここで俺の目の前で」
「あー……。そこ。そういう話かぁ……」
「それを耳にした以上俺は、お前との勤務を続ける事は出来ない。即刻上司達に報告し、お前の免職を、願い出る事に」
「ちょ、と待て。待てよおいさっきのは、冗談だって」
「ジョーダン?」
初めて耳にする舶来品のように田添は、繰り返したが、数秒後には漢字に直せた様子で溜め息をついた。
「悪かったよ。けど俺だって、もうちょっとは冗談が通じてくれる奴かと思ってたんだ」
「なぜそんな冗談を、口にする必要がある」
「本当の事なんか、口にした時点で嫌になるからに決まってんだろ」
そうか、と新しい知識を得た顔になった田添に、楠原の方では下唇から口を閉じて、ぱふ、と息を抜いた。変わった溜め息をつく、と田添が思ったところで、
「で、何だっけ」
と目を下ろし地図に突いていた左手のそばに、話題のものを見付ける。
横に平たい楕円の上に、小さな丸が二つ並んでくっついた記号。
「そうそうこれ、『カエル』な。うわ随分と懐かしい話してるみてぇ。俺が言いたかったのはだから、要するにさ……」
真下に記号を指差しながら、田添に向けた黒眼は焦点が定まって見える。
「『俺達が仮に使ったとしても、捕まる心配が無い場所』って事だよ」
目や口元にへらへらした笑みも浮かべていない。
「報告したって意味が無い。話も適当に聞かれて、記録に残らない。『そんな所には何も無いから探したところで時間の無駄だ』とかって言われるんだ。こっちだって何も無いものを、わざわざ報告なんかしないんだけど」
ふむ、と口にするだけで田添は、頷かない。
「俺達、二人だけならともかくそんな報告がずっと続いてたら、先輩達の印象まで、悪くさせちまうだろ。だからさ」
は、と出かけた溜め息を、田添は口を結び飲み込んだ。確証は無いもののこれまでの間に、溜め息をついた途端考えを読み取られる気がしていたからだ。
とは言え全てを隠せはしまいと、感情的に似通った疑問を口にする。
「なぜ、そんな状況になっている」
「そりゃあまぁ、でっかい額のお金が、動いてくれるからじゃないの?」
ふむ、と目線は逸らさず頷きの代わりのように呟く。
「どこのどなた様が常連なんだか、正直分かんねぇや俺そこまで首突っ込みたくもねぇし、人の好みなんて人それぞれ、ですから。ま、とにかく困っちまうわけよ。その辺りの店に地域の皆さんが、有り難くも潤っちまうもんでね。ならそんな危なっかしい場所は放っといて、下っ端の俺達には、もっと雑なとこ当たらせた方が良いよねぇ」
田添も目を下ろし改めて、地図に付けられた記号を見る。
「それで、『財布』か」
「カエルに見えたか。俺絵ぇ下手だからな」
「上手い下手を問う場合か。がま口にするからだ」
「長財布は四角だし巾着は丸だろ。パッと見て分かるとこが、イマイチねぇってか」
窓際の文机に身を寄せて、もう一本取り出した煙草に火を点ける。吸い入れて吐き出した時にはどこか、ぼんやりした黒眼に変わっている。
「要するに俺達は、パンッパンに金詰まった財布ただ見過ごしにして、その辺の道端やらドブん中やらに落っこちてる小銭、せっせこ拾い集めてろって言われてんだ。ああ」
特に相槌も返さず田添は、自分の四方に地図を眺めている。『財布』だと思いながら見始めた途端に、膝のそばにも手の際にも、川の西側であれ東側であれ、要所要所に『財布』が見つかる。
「なぜ、そうした場所ばかりを追っている?」
ふにぇ、と気の抜けた声を返しながら、楠原はふわふわの頭を掻き回す。
「なぜ、って事もねぇよなぁ。見つけちまうだけだよ。俺は適当に何も考えず、その辺遊び回ってるだけだから」
ふむ、と田添は何事も無かったかのように、地図の端際まで戻る。
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