私は、落合さんの「ヌル庵」でのステートメントについて、ChatGPTやClaudeと対話することで、いろいろな気づきや発見がありました。
そして落合さんの言う「デジタルネイチャー」の時代を生きる中での、新しい「民藝」という概念はどういうものなのか、どういう意味を持っているのかが知りたくてAIと会話を続けたのですが。
1.「ヌル庵」ステートメントについて、AIとのChat。
私自身が「民藝」というものを理解出来ていないので、このAIの解説が落合さんの言うところの民藝を説明出来ているのかは解りません。
それでもステートメントが西洋との対比で語られていることなど、私には興味深い内容でした。
2.落合さんの「ヌル庵」のステートメント、最後の部分の引用。
3.ここまでの私の感想、解釈。規範とは。
このステートメントをどう思いますか。
私の今の解釈を記録として書いておきます。
●「多義的宇宙論を構成しつつある赤子」
-----この文章の主語は「ここに醸成されつつある物化する計算機自然は」なのですが、私が「赤子」からイメージしたのは、私たち人間です。
自然を前にすれば、人間は無力。自然をコントロールしよう思っても、それは矛盾を生むだけ。
そんな「大自然」の中で、しかも変化が加速度的になる自然を前に、私たちは「赤子」だと私は思ったのです。
でもこの文章は、今生まれている「計算機自然」が「赤子」ということ?
そんな「赤子」の計算機自然の中で生きていくためには、
「規範が刻印されたオブジェクトと共に創発する喜びを共有し,無為自然の日々を喜びあって過ごす美学の醸成こそが平和の希求であるだろう.」
「規範が刻印されたオブジェクト」・・・、これは本当に重要なことなのですが、「規範」を取り戻すことが出来るでしょうか。
「規範」は、その地域(今なら「お互いがコミュニティと思うネット空間」もそうかも)で、仲間と生きるためのもの。
規則や法律は、最低限必要なもの。
でも「規範」は、そのコミュニティに参加している人が、それぞれの状況を思いやって、そのコミュニティでお互い安心して生きていくために「行動として振舞わななければならないこと」。
法律に書いてないからと言って、それ以外は「何をするのも勝手」という振る舞いは、これからますます自分自身のこの社会での「生きる難しさ」となって降りかかってくるはず。
私自身、「これは自分の権利だよね」と思っているものの中に、この複雑な社会をもう一度「生きやすい社会」にするためには、「規範」としての振る舞いとはどういうもので、その振る舞いのためには、「自分の権利」と思っているものさえ見直す必要があるかもしれないと感じ始めています。
ただ、それがどういうことなのか。
どうやって、社会の中でコンセンサスを得ていくものなのか。
「規範」は、法や規則よりも、一見厳しいものになるかもしれません。
でも、それを解ったうえで、一人ひとりが「規範」を実行しようとする
「みなもと」となるのはどういうものなのでしょう。
私が最近思うようになったのは、「規範」を実践できる行動力となるものは、やはり自分の「好き」「やってみたい」と思うことを思いっきり出来る環境だと。
他人から言われて行動するのではない。
自分の一度きりの人生を、自分のために「生きている!」と思えることを実践できる環境。
一見矛盾しているようだけど、そう思うのです。
自分が幸福でなければ、「規範」は育たない。
押し付けられる「規範」というのは、成立しないはずです。
そして落合さんが言うところの「規範が刻印されたオブジェクト」となるものが日本の「歴史・文化」の文脈や実際のオブジェクトとしてある。
日本なら出来るはず。
4.私のこのnoteの感想を「ochyaiNote」に聞いてみたもの。
「赤子」の解釈や、「規範の実践と幸福」についての解説は、私には解りやすかったかな。