伊藤穣一氏のPodcastで、西田幾多郎の「善の研究」の話がまた出てきたので、またちょっとやってみようかな・・・と。
ChatGPTも読み込めるテキストの量が圧倒的に増えてきたのと、私がここ半年以上、落合陽一氏の「デジタルネイチャー」と「オブジェクト指向」について「ochyaiNote」相手にイメージを膨らませてきたことで、「善の研究」の中の「純粋経験」について、今度は「ochyaiNote」と会話したくなったのです。
私が聞きたい内容は、「純粋経験」とは、AI時代の「オブジェクト指向」から解説すると、どういうオブジェクトの状態なのかというようなこと。
そして西田幾多郎の「純粋経験」のイメージを深めるために、出てきた回答を受けて、思いついたことを質問してみました。
興味深い!!!
質問:
以下の文章は、西田幾多郎の「純粋経験」の第一章です。 まずは、この西田の文章を「デジタルネイチャー」の世界となるこれからの視点からみて、「純粋経験」というものが、「デジタルネイチャー」の文脈で、どういうふうに表現できるのか、感想なども含めて、存分に解説、お話してください。
(第一章は省略)
回答:
質問:
私が今、このあなたが出力してきた、西田幾多郎の「純粋経験」について、
"西田の「純粋経験」は、自己の思考や判断を介在させず、事実そのものをありのままに知覚する状態を指しています。"
と言うのならば、「自己の思考や判断を介する前のありのままの知覚」と"「デジタル技術」と自然が融合し、物理的な制約を超越した経験"とは、違うことを言っている気がするのです。
西田の「純粋経験」は、人間が意識として感知する前のなんらかの経験であり、"「デジタル技術」と自然が融合し、物理的な制約を超越した経験"とは、違うことを言っている気がするのです。この「純粋経験」を落合氏のAI時代の「オブジェクト指向」の考え方で、解説できますか。
回答:
質問:
最近の研究では、人間は、自分の行動を自分の意志で動いた、自分の意志で判断して、今動いたと思う以前に、脳を始めとした身体は、なんらかの周囲からの情報を受け取り、人が思う以前に動き出しているということが解ってきているようです。
とするなら、以下の文章、
##西田の「純粋経験」は、プログラミングにおけるオブジェクトの純粋な状態をそのまま受け入れることに対応し、判断や思考を介さない純粋な知覚を意味します。##
ここで表現している 「プログラミングにおけるオブジェクトの純粋な状態をそのまま受け入れることに対応し、判断や思考を介さない純粋な知覚」という、この純粋な知覚というのは、人間が自分の意志で動いたと思う以前に動き出そうとした、周囲からの何等かの情報を「そのまま」受け取ったときの「知覚」というもの近いようなイメージを、私はしています。
これについて、オブジェクト指向からは、どのように表現できますか。
回答:
面白い!!!
でも西田幾多郎がイメージしたものって、本当はどういうものだったんだろう。
「ときめき」が「純粋経験」のひとつだとしたら、
「ときめき」は人の判断や思考が介在する前の「経験」?