「輪廻転生」は「ピュシスとロゴスの交差点」。坂本龍一さんのメッセージから今朝考えたこと。
坂本龍一さんがメッセージとして残した「TIME」という舞台が講演されている紹介が、今朝のニュースコーナーでありました。
夏目漱石「夢十夜」からも着想を得ているとのこと。
坂本龍一さんが「ニューヨークタイムズ(2021/7/15)」に語った話が紹介されました。
*****夏目漱石「夢十夜」より*****
女は「自分が死んだら穴を掘って埋めて欲しい」と男に懇願する。
そして百年待って欲しいと言う。
男は待ち続けるが、百年はなかなか来ない。
「自分は女にだまされたのではなかろろうか」そう思ったら、真っ白なユリが咲く。「百年はもう来ていたんだなぁ」と。
女がユリとなって咲く「輪廻転生」を彷彿とさせる。
*****坂本龍一*****
(夏目漱石「夢十夜」は)「輪廻転生」に関する私の信念です。なぜなら、彼女は100年後に戻ってくると約束して花になって戻ってきたんですから。
私は、自分の体がほかの生物の栄養になるように土葬にされたいと思っているんです。漱石の物語では、彼女は花になるんです。とても美しいですよね。
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以前私は「ピュシスとロゴスを言ったり来たり」ということをnoteに書きました。
「輪廻転生」という概念は、よく考えてしまいます。
それは、福岡伸一氏の「動的平衡」のイメージなど、現代の科学の発達で解ってきたことだけでも、人間だけでなくあらゆる生命が分子・原子レベルで見ても絶えず物質としては、入れ替わっているし、当然今自分を構成している物質は、次には何か別のものを構成している。
だから自分が死んでも、それは「いつかユリの花になる」ということをそのまま素直に受け入れられる自分もいます。
ただ、朝からこんなことを考えていてふと思ったのは、この「輪廻転生」ということを私は「ピュシス」と捉えているのか「ロゴス」と捉えているのか?などということを今思ってしまった・・・。なのでこれを書いているのですが・・・。
一年以上前に私が「ピュシスとロゴスを行ったり来たり」と、この思考を絶えず行き来しながら生きることが自分にとっては必要だという気持ちで書いたと思うのです。
ただ、このときの「ピュシス」と「ロゴス」が、最近急速に進化したAI相手の問答をしながら、自分に変化があるような気がしたのです。
(上手く言語化できるかなぁ)
「輪廻転生」を以前の私は「ピュシス」と思っていたのか「ロゴス」と思っていたのか?
そう坂本龍一さんの話を聞きながら思ったのです。
以前は「輪廻転生」を「ピュシス」と思っていた。「輪廻転生」はロゴス「論理的」ではないと。
「ピュシス」は、自然界や物事が本来持っている根本的な性質や本質。
では「ロゴス」とは?
私は、この「ロゴス」の意味することが解っていないみたいです。
ロゴスは単に「論理的」ということではなく、西洋哲学の中から生まれた言葉で「人間から見て、その時代の人間の認知や知識によっての
「『しばしば知識や理解を得るための方法や論理的思考』方法」
ということなんですね。
「論理的」という言葉を聞くと、どうしても「正しい」と思ってしまうのです。
でも「論理的思考」というのはあくまでも、「その時代の人間が、その時代の知識を理解するために、自分の頭やその時代の技術で理解したこと」
というほどの意味なのかと。
「輪廻転生」は既に「ロゴス」でしょうか。
私は、科学が進化して、いろいろな物理世界のことが解ってきて、そんな話を聞いていると「輪廻転生」は論理的でもあるなと思ったりしてます。
AIがこれからも発達するでしょう。
「論理的」という部分では、もう人間がAIには勝てません。
でもやはりそのAIを使うのは人間。
進化した「計算機自然」の中での「ピュシス」をこれからの私たちは体験できそうです。
上の文章の感想を「ochyaiNote」聞いたものがこれ。
「ピュシスとロゴスの交差点」
なんかいい表現だなぁ。