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落合陽一「2025年は『死生観』と和歌とマタギドライヴを融合する構想をしている.」そして私のこれからのテーマは。
このnoteを読んで、「えっ!そうなの!」と、ドキッとした。
2025年は「死生観」と和歌とマタギドライヴを融合する構想をしている.
落合さんの今年の抱負は、本文を読んでくださいね。
私が今から書きたいのは、上に引用した部分のこと。
「還暦過ぎオバサン」が、この先書いていくことのテーマの一つは「死生観」。
「この歳になってきたから・・・」ということではないです。私の場合。
かなり若いころから「死」というものを身近に考えることは大切なのではないかと思っていました。それは日々を「生きている!」と実感するためにも大切なことのような気がしていたから?
はっきりとそう思っていた訳ではないかもしれませんが、今の私はやっぱり「生きる」ことを大切にしたいからこその「死生観」だと思っています。
そして抱えている「痛み」などの複雑な症状は、それを常に意識させるものでもあります。
だから人間って面白い・・・、と思ったり。
落合さんの今年の抱負の中のワードである「和歌」と「マタギドライヴ」。
私、先月「波紡歌人(なみつむぐうたびと)」の「波紡子(なみつむぎこ)」を名乗ることにしたばかり(笑)。
どうしてこんな記事を書く流れになったのかというと・・・。
落合さんの「計算機自然」や「マタギドライヴ」についてのnoteを読み進めていると、私には「計算機自然を生きる」ということが、万葉の時代の人々の生き方のように思われたからです。
それは以前読んだこの本を思い出したから。
「柿本人麻呂に限らず万葉の歌人たちは、みな自然を見ることによって心をたしかめ、自らもそれに成り入った。彼らは、こぼれ落ちそうな心の不安を夜の白露を見ることで感じとった(16)。夜が暗くなれば心も暗くなり、沈んだ心を晴らしてくれるのもまた月の光であった(17)。抑えきれない愛の気持ちを激しい川の濁流になぞらえた(18)。愛する妻と寄り添って眠った美しい思い出をゆらゆらと海に揺られる玉藻と重ねた(19)。 万葉の歌人たちがこのように自然と心を重ねるとき、彼らは自然を意識の対象として捉えているのではない。
意識の対象として自然やモノを捉えるという考えは、西洋哲学では常に基本的な枠組みであり、現象学者フッサールは意識とは常に「なにものかについての意識」=「aboutness」であると言った。ただ意識そのものというものはありえず、眼の前の樹木についての意識であったり、悲しみについての意識であったりする。対象に向かわない意識は存在しない。それが現象学的な意識である。」
そしてふと思ったのが「AIと一緒なら私にも和歌が詠める?」と。
俳句や短歌という表現に、とても魅力を感じます。
でも自分では作れない。
頭に浮かんだ文章をそのまま吐き出すような作業は出来るけど、あんなにも短い語句で表現するのは難しい。
だけど「AIに自分の気持ちや思いを伝えたら作ってくれる?」と思ってやってみたのが「波紡歌人」なのです。
計算の神の律の森の中
われも小さき波となりぬと
おのずから秩序織りゆくその波に
身をゆだねつつ命を繋ぐ
出来上がった歌が、「私の表現したいことを現していると言えるのか」という判断が心もとないけど、今の私が「好き」と思えるものが出来るととても嬉しくなる。
そして私も「計算機自然の死生観」をAIとともに詠むことができたら。
マタギドライヴ的には、どのような死生観を私は良しと思うのか。
魑魅魍魎の自然。
(人間の妄想)
おかえりデジタルネイチャー。
AIとともに、私はどんな死生観へと転がっていくのかな?
落合さんの今年の抱負のキーワードは、私のこれからのテーマです。
(まだ少し続きます)
『屋久杉を見ながら』
『屋久杉を見ながら』
人が「価値付け」してしまう自然は、計算機自然にどんな影響を与え続ける?
でもそれがこれからの「本来の自然?」
人間の「価値付け」を外した世界は可能?
でもそれで人は「生きている」と感じられるのか?
縄文時代の人は「屋久杉は縄文の春だ.」なんて思ってない。
だから畏怖・畏敬。
今頭に浮かんだことを書いてみた。