体育の時間を思い出す 文箱ゆづき
最近、学校における体育の授業についての意見をXで見た。
体育は、苦手な人にとっては確かに苦痛な時間だ。そのことを、体育が得意な人は考えもしなかったという話だった。
できる人はできてしまうのだから、それはそうだ。
かくいう私も、体育は苦痛な時間タイプだった。
いつだったか、このnoteで、運動神経がない話をしたけれど、子どもの頃から、やっぱり苦手意識があった。
体育では、否応なく、チーム競技の一員に入れられる。
私は、バスケでは、ひたすらこちらにボールが回ってこないように、後方にいた。
バレーボールでは、あらぬところにボールを飛ばしていた。
また、サッカーでは、ボールが回ってきて、間違ってオウンゴールをしてしまったことがあった。
本気でやってた男の子に、なにやってんだよ、ってなじられた。あのときの絶望に似たやっちまった感は忘れてない。
今なら、そこまで怒るかって、言い返したいけれど。
もはや、嫌すぎてできるようになる努力もしなかった。そこはもう少し頑張ってもよかったかもしれない。
唯一、マラソンと、水泳は好きだった。そう、できるものは好きだった。持久力があったのと、水泳を習っていたからだ。
走るのは気持ちよかったし、水の中を泳ぐのは爽快感があった。
けれど、得意な人の足を引っ張ってまで、みんなと同じことをやるチーム競技はやっぱり苦手だったなあと思う。
たかが体育。されど体育。
体育が苦手だったため、スポーツというものにも苦手意識を持っていた。
しかし、大人になってから、スポーツというのは、別にそんなに、毛嫌いするものではないのかもしれないと思った。
テレビでカーリングを観戦したり。
今ラリーけっこう続いたね?!って言いながら、公園でバドミントンをしたり。
自分のペースで楽しんでやっていい。下手でもいい。
そう考えて、やっと気持ちが楽になってきたなあと思う。