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記憶を記録する 文箱ゆづき


過去の自分が励まされた言葉。
この意気で自分は、やっていこうと思ったこと。
腹を抱えて笑ったこと。
いつの間にか忘れている。

忘れたくないと思ったら?
記録する?

そこでふと思うのだ。
文章を記録媒体としたとき、記憶していたことを記録したとたん、それ以外での表現がなくなってしまったみたいに、それとして固定されてしまうような気がするなと。
そうだっけ、こんな言葉で表される体験だったけ?そう思ったのもつかの間、その言葉で、その語感で表現されると、ああ、そうだった、その表現だよねと脳が馴染んでしまう。
記憶はそれとしてしみついて、補正された文章の記録が記憶になる。はじめて体験したときの手触りは薄れて固定化される。

人に伝えようとすると、必要以上に美化してさえいる。

体験したことを体験したまま、感じたことを感じたまま、記録できることなんてない。
だけど、そこにもどかしさを感じてしまう。その記録からわかる記憶はホンモノ?って。
ホンモノもニセモノも記録してしまえば、もはやわからない。

十年前の日記に触れた時、確かな自分の記憶でない記録に、奇妙な感覚になる。
忘れていたけれど、そんな自分もいたんだねと出会い直す感覚。
だよね、このとき、こんなこと思ってたよねと同意したり。
嘘だ、こんな陽気なこと私が書くはずがない、別人格か?と思ったり。

この出会い直しを求めて記録してしまうのかもしれない。

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