hengeniの由来と多面体について 七緒栞菜
私は、シルバージュエリーの制作・販売と私物の古本やzineの販売活動を行っている。屋号は「hengeni」と「hengeni books」(読み方はローマ字読みでそのまま「ヘンゲニ」です。)
この「hengeni」という屋号は、ジュエリー販売を始めるときに悩みに悩んでつけたもので、ふたつの意味を込めている。(そしてすごく気に入っている…!)
ひとつは、「変幻自在」という意味。「hengen(変幻)+I(私)」
変幻自在とは、自分の意思によって変化(へんか)することを指す。その人のお気に入りの装身具を身に着けることで、その人らしく輝いてほしいという意味を込めた。
もうひとつは、「変化に」という意味。「henge(変化)+ni(に)」
七変化という言葉があるが、変化(へんげ)とは姿を次々に変えることを指す。私は、その日の気分によって、服装のイメージをがらりと変える。そんないろんな「あなた」に寄り添えるような装身具を作りたいという思いを込めた。
ジュエリー販売から1年半ほど遅れて本に関する活動を始めることにしたのだが、こちらでも「hengeni」という屋号をそのまま用いることにした。自分自身が本を手に取るときにも、私は同じような思いを抱くと思ったからだ。
お気に入りの本を読むことで、その人がその人らしくなっていく。いろんな本を読むことで、その人のその人らしさの幅が広がる。私が本を売るのなら、そんなお手伝いがしたいと思った。
屋号として「hengeni」を名乗り始めてから2年と数か月を過ごしてきて、やっと気づいたことがある。それは、「私自身が『hengeni』になりたいのだ」ということだった。
これまで、「多面体のような人」が魅力的だと思ってきた。
平野啓一郎さんの言葉をお借りすると、「分人」という感覚がとても近い。平野さんは、ひとりの人は分けられない「個人(individual)」ではなく、分けられる「分人(dividual)」であるという。変わらない私なんてものは本当は存在しなくて、職場での私や家族といるときの私、恋人といるときの私があるように、私はあらゆる私として分割して存在しているというのだ。私はこれを「確固とした私」があるのではなく「相対的な私」があるという風に理解した。
私のいう「多面体のような人」とは、「その人固有の面をたくさんもつ人、そして、その面を時や場に応じて表出できている人」だ。そういう人が、大人である気がする。素敵な人である気がする。
本人が差し出している面はもちろん相手から見えるが、相手からするとその隣り合った面も実は少し見えていたりする。時や場に応じて差し出された面自体にもうなずけて、且つ、その人のそういったいろんな面が組み合わさった集合体がその人であると感じられたとき、私は非常にその人を魅力的だと感じる気がする。少なくともこれまで私が出会ってきた魅力的な人たちは、みんなそんな感じだ。
だから私もそういう風になりたいのだと思う。多面体になりたい。そして、変幻自在になりたい。変化(へんげ)を楽しみたい。素敵な大人になりたい。
「hengeni」を体現するような大人に、私に、なれるだろうか。24だから、もう年齢としては大人なのだろうが。大人になりきれていないなあと常々思う。悔しいけれど。でも、子ども心を忘れた大人にもなりたくはない。こういうところもひとつの面なのだろうか。わからないや。
「hengeni」になってからは2歳と数か月だから、まだまだひよっこなのかもしれないです。自分自身のことも、自分が考えていることも、まだまだわからないことだらけです。
まとまりがなくなってまいりました。
取るに足らない(今回はそんなこともないか?)頭の中をとりとめもなく書き綴った気がします。どうだろう、伝わるかな。
ひとまず、変幻自在な多面体を目指して、日々少しずつ進んでまいります。
遠くから見たら一見球体なんだけれど、近くで見たらなんだかすっごくいろんな面が張り合わせられていて、なんかちょっといつもきらきらしている、みたいな。
なんだこれ?って手に持って、角度を変えながら空に透かしてみたくなるような。(それってなんか、宝石みたいだ!)
そんな風になりたいです。頑張ります。頑張ります。