
話す・聞く、伝える・伝わる 七緒栞菜
話すのが苦手だとずっと思っていた。中学生くらいまではそんなことはなかったのだが、だんだんと人と話すのが怖くなって、ずっと何かのお面をつけて自分をパペットのようにして話しているような気分だった。
だから、はじめましての人と話すとき「私は話すのが苦手です」と先に伝えるようにしていた。ずるいなあと思いながら、そうしていた。人と話す時に必然的に生じる空白の時間さえも恐ろしくて、黙り込みながら静かに怯えていたり、話さねばと咄嗟に言葉を発して後悔したりすることが多かった。だから、自分が話すよりも人の話を聞いているほうがずっとよかった。自分の話すペースはいつまでたってもつかめないから、ずっと相手に話していてほしいくらいだった。
でも、最近、話したいと思うようになってきた。いや、私も話さなくてはいけないと思うようになった。別にもともと話したくなかったわけではないのだが、話すことへのためらいがなくなってきたのだと思う。というよりも、躊躇してはいけないと思うようになったのかもしれない。
つい最近、放課後デイサービスでアルバイトをした。障がいをもった子どもの学童のような場所だ。放デイに来る子どもは、相手に自分の思いを伝えることが難しい子どもばかりだった。言葉にならない思いをもつ彼らは、何かをたたいたり、声を発したりしながら、必死に何かを伝えようとしていた。その合図のような音やしぐさから、どうにか彼らの思いを掬い取れるように、目を向け耳を傾けた。
このときに思ったことは2つ。ひとつは、「言葉を話すことができるのに、話すのが苦手なんて言ってはいけない」ということ。これは本当に強く思った。話すという手段をもつ私は、たとえ話すことが苦手でも、伝える手段としての言葉を大切に扱わなければならないと思った。もうひとつは、「言葉というものは本来それ自体は実体がなく、数々の現象の総体である」ということだ。だから、伝える側の表現方法は本来様々で、必ずしも言葉にする必要はない。むしろ言葉にしないほうが、ひとつの現象が細やかに伝わる場合だってあるのかもしれない。それを受け取る側が、よく見て、よく聞いて、よく感じる。伝えるというのは言葉だけを話すことではないし、伝わるというのは言葉だけを聞くことではないと思った。
言葉を大切にすると同時に、言葉にならないものたちを大切にしたい。何かを伝えるときも、思いを受け取るときも。