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幼い私とキリスト教 七緒栞菜

 3歳くらいの頃からぼんやりと思っていたことを言語化していきたい。

 まずひとつめ。悪いことをすると正体不明のおじさん(たぶん)から、何らかの点数を減点される、という妄想、というか、幻覚、というか.…について。

「はなくそをほじってしまったら何点減点だろう?」
「お外から帰ってきたのに手を洗わなかったら何点減点?」
「歯磨きを忘れてしまったら…?」

 幼い頃、ほんの些細な悪いことをしそうになると、変なおじさんが頭にいつも現れていた。特段何を話すでもなく、顔もよく見えない(というか、人かどうかも判別がついていない)のだが、ノートを開いてこちらを見ているような様子はある。直接減点の点数や項目を詳しく伝えられることもない。ただただいつも、何かの拍子に、ふっと姿を現す。そんなおじさん。

 面白いことに、良いことをしたときにはおじさんは現れなかった。現れるのは決まって、悪いことをしたとき、もしくは、しそうになっているときばかり。

 どれだけ綺麗な泥団子を作れたって、苦手な食べ物を頑張って食べたって、加点されるかどうかが頭をよぎることはなかった。そのおじさんは目の前に姿を現さない。

 今でもまだ、たまに現れる。目をつむったときとかにどこからともなくおじさんは現れて、私のその日の出来事やちょっと前の出来事を確認する。厳密にいえば、評価とか、減点ではなく、ノートを広げながらじっとこちらを見ているような感じだ。

 書きながら思い出したのだが、幼い頃、いたるところにカメラや録音機が仕掛けられていると思っていた。家とか、学校とか。自分の部屋でさえも。その頃はカメラや録音機があると思っていたのだが、大きくなるにつれて「何らかの目」から見られているのだと思うようになった。(当たり前だが、カメラなどどこにもないし、「何らかの目」なるものもどこにもない。)

 そしてふたつめ。地球は水族館みたいになっていると思っていた。私たちが水族館の水槽に閉じ込められた魚たちを見ているみたいに、地球が、人間が、見られていると思っていた。誰かが外でけたけた笑いながら、この地球を眺めていると思っていた。掌の上で転がされているというか、何かを調整されているというか、いつでもそんな風に感じていた。これは今でも変わらない。

 以上のような、幼少期から思い続けて(というよりも勝手に心に現れ続けて)きたあれこれに関して、「ひょっとしたらキリスト教的な考え方なのでは?」という言葉をもらった。いままでしっかりと宗教を学んでこなかったから、あまりまだ実感はないのだが、その人の話を聞く限りかなり似通っている部分がある気がしてならない。(確かに若松英輔さん好きだしなぁ、とか思い当たる節はある。)ということで、キリスト教学習期間に突入しようと思っています。キリスト教的考え方が自分の体にデフォルトで入っていたのだとしたら面白いな、なんて思いながら。


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