「夢」
最近、夢について人と話す機会があった。
その時はうまく話せなかったので、後になって改めて「夢」について考えてみた。
「夢」という言葉を調べてたら、①「寝てみる幻覚」②「将来への希望や願望」と二つ出てきた。自分にとっての「夢」は①で、②ではなかった。ちなみに、夢という言葉が②の意味を持ったのは明治時代のことでドリームの訳語として加わったらしい。
子供の頃に大人に聞かれる「夢」は、大体が②であって「大人になったら、何になるのか」と問われる。一般的に、子供の将来の選択肢が多いことは良いことだとされているし、基本的にはどんな夢でも叶えられる社会の方が良いということになっていると思う。
そしてまた、勤労は義務にもなっているので、子供が将来何になるのかを強制的に決めるのは良くないけれど、何らかの形で子供たちを社会に動員したいと思う大人たちは、子供たちに「将来どのように社会に貢献するのか」ということを幼いころから問うことで、いつかこの社会を担っていかなくてはならないことを伝えているように思う。もちろん、子供によっては、自らの将来の夢をまるで天命のように覚悟と強い決意をもって決めてしまう子もいる。
しかし、そうでない多くの子供は、日々、何かになるように促される。学校でも一年生より二年生になった人間の方が賢く、進学するほどに賢くなるという暗黙の了解があるように思う。そうやって、子供は常に成長するべく教育を受けることによって、常に何かになるように促される。
これは個人的な経験から思うことだけれど、子供はテレビを見始めると、物をね欲しがり始めて、小学校に行くと夢を語りだすように思う。
だから、学校生活が終わりに近づいたころに「夢」のない学生は焦りはじめるのだと思う。
課された日々をこなしていれば、いわゆる成長ができた日々が終わり、自ら決めた「夢」を求めなければいけなくなる。
そして、「夢」は「やりたいこと」に格下げされ、どうにかそれを見つけようとして、人によっては旅をして自分探しなんかを始めるのだと思う。自分の内ではなく、外の環境に対しての手当てをする人間になろうと思う人は社会を良くしようとしたり、自分の望む形で人を上回ろうとしたりすることを選ぶように思う。
人の目を気にする場合に難しいのは、自分の実力とかけ離れた夢を語れば馬鹿にされるし、小さすぎてもまた馬鹿にされるので、ここではさじ加減が必要になってくると思う。
いずれにせよ、子供を社会に動員しようとする教育の成果はこの時の「焦り」という形で実を結んでいると思う。その後もしばらくは、成長を求める姿勢は尊敬され、成長を求めない姿勢は、笑われるか、白い目で見られるように思う。