宿直いとう

都内唯一の村、檜原村人里にあるゲストハウス「へんぼり堂」宿直。 趣味は畑、DIY、料理、陶芸、コーヒー焙煎など。

宿直いとう

都内唯一の村、檜原村人里にあるゲストハウス「へんぼり堂」宿直。 趣味は畑、DIY、料理、陶芸、コーヒー焙煎など。

最近の記事

「つまらなさ、不自由さ」

時代が変われば、一つ前の時代の流行は古臭く物珍しさもないものになってしまう。だから、流行に自分を合わせれば、それは常に時限的なものになってしまう。それがファッションというものだろうし、別にそれは悪いことではないだろうけれど、ただすべてをそうしてしまうと、常に刷新していかなくてはいけないから大変だとは思う。 これは雑誌に載っているお洋服を買ってしまうと、来年もまた新しいお洋服を買わないといけないという話でもあるけれど、現在に最適化した状況を作ってしまうと変え続けていかなくてはい

    • 「話さないこと」

      普段の会話でもそうだけれど、特に初対面の人と話す時にはあえてあまり質問しないようにしている。 なぜなら、質問というのは多少なりとも相手に返答を強いてしまう。面接のように質問責めにされるのはあまり気持ちが良いものではないと思うし、そういったQ&Aの繰り返しよりも、例えば天気のような当たり障りのない話題から会話を始めて、相手がどのように話し、どのように聞くのか様子をみる方がより相手のことをわかるように思う。 人によってはいきなり相手の懐に飛び込んでいくようなコミュニケーションの取

      • 「話すこと」

        ほんの少し話しただけでも、意気投合して親友のような関係になることもあるのかもしれないけれど、基本的には親しい仲になるまでには、人はある程度の時間が必要だと思う。逆に、もしも大人になってから出会っていたら、絶対に仲良くはならないような幼馴染がいるという人は結構いると思う。 どうでも良いような会話のやりとりを重ねることで、互いの微妙な嗜好や価値観なんかを感じ取り合って、それでも関係が続くようならば、時には意見の相違があったとしても、「それはそれ」ということで、付き合いが続くと思う

        • 「夢」

          最近、夢について人と話す機会があった。 その時はうまく話せなかったので、後になって改めて「夢」について考えてみた。 「夢」という言葉を調べてたら、①「寝てみる幻覚」②「将来への希望や願望」と二つ出てきた。自分にとっての「夢」は①で、②ではなかった。ちなみに、夢という言葉が②の意味を持ったのは明治時代のことでドリームの訳語として加わったらしい。 子供の頃に大人に聞かれる「夢」は、大体が②であって「大人になったら、何になるのか」と問われる。一般的に、子供の将来の選択肢が多いことは

          「観光」

          自分は観光というものにあまり興味がない。 光を観ると書くけれど、谷崎潤一郎ではないが、自分はどちらかというと影の方がその人や町や物の本質や輪郭をはっきりと表すように思う。 宿屋をやっていてもいわゆる観光客というのは、あまり相手にしていない。 観光客のような、不特定多数を相手にすることを想定すれば、どうしたってこちらも個別性を消した一般的な対応になる。 そういったものは大手に任せて、こっちは歪なものを作っていくことにしか興味がない。 逆に、自分がどこかの地へ赴くときも観光案内だ

          「うわさ」

          田舎暮らしをしていると、うわさ話が時に有効に、時にデタラメに、時に迷惑な情報源になる。 都心に暮らす人でも、テレビであったり、SNSであったりが与える情報のほとんどは、人類の発展に寄与するような建設的な情報ではなくて、興味や好奇心を満たすために、自分を含めた誰かの噂に画像や動画ついたもののように思う。 この前に行った沖縄でも、全国ネットのテレビでは連日吉本興業の例の話題が報道されていた。ほとんどの人にとってどうでもいいことを、こんなにも多くの人間が共有しているということに漠然

          「うわさ」

          「きけん」

          この夏は小学生ぶりにシュノーケリングをやった。 小学生以来なので、ほぼ初挑戦だ。 海に入る前に泳げるのかと問われて、クロールや平泳ぎならできますと答えたが、あとになってそんなものは全く役に立たないということがわかった。 プールとは違い、なんの障害もない場所でA地点からB地点まで最短距離で移動するのではなく、右に左に、前に後ろに、上に下に、波に揺られ続ければ、自分がどちらの方向から泳いで来たのかもわからなくなる。 シュノーケルの中に水が入ればむせるし、フィンは水の抵抗が

          「きけん」

          「ぜいたく」

          自分はつくづく貧乏性だと思う。 中華屋に行けば、黙って注文した料理を待っているよりも、できれば厨房を覗きたいと思ってしまう。 まだ10代のころに無限にお金があったら、どうするのかを考えた。 とりあえず、プール付きの大きな家に住んで、毎日贅沢をするのかとも考えたが、恐らく自分はそんな暮らしに耐えられそうもない。 家が広ければ、それだけ掃除をする面積が増えてしまう。 この考え方がすでに貧乏性で、無限にお金があれば家政婦でも雇えば良いのだが、自分の家を他人に出入りされ掃除をしてほし

          「ぜいたく」

          「継続」

          全く自慢ではないけれど、自分は何の心がけもしていないが物によっては、とても物持ちが良い。 今使っている携帯はもう買ってから12年が経つし、ブーツもソールを何度か替えて11年になる。スニーカーですら買ってから6年も経つ。 最初からこんなに長く使う予定もなかったが、結果的にこんなに長く付き合うことになった。 自分がある程度継続しているモノやコトは、それ自体に面白さや、心地よさがあったり、自分なりに納得がいかず結果的に飽きずに長くやっているだけで、継続というのはあくまで始めるときに

          「やる人、やらない人」

          たまに、何かを始めるべきかどうかを悩んでいるというような相談を受けたり、そういう人に会ったりする。 または、そういった人を勇気づける内容の自己啓発本を目にする。 これから何かを「やるか、やらないか」という段階で、情報を集めて分析するという作業にではなく、意志を固める作業に関しては、あまり人を関わらせない方が良いように思う。 自分の経験上、何かをやる人というのは、それをやらずにはいられない人であることが多く、能力が高いとか、環境に恵まれているということは、そこまで関係がないよう

          「やる人、やらない人」

          「誰かたち」

          最近、不特定多数の人々のことをあまり考えないように行動している。 不特定多数の人々というのは、「お客様」と言われたり、「人材」と言われたり、一般に向けて使う「みんな」などの顔の見えない「誰かたち」のことだ。 多くの人間を相手にする仕事に携わっていれば、それも必要だろうけれど、今の自分には必要がないように思う。 また、「お客様」といった風に一般名詞で考えることは、様々な側面を持つ人間を都合の良く単純化する面もあるように思う。 そのように、人を立場で括り漂白することは、ロールプレ

          「誰かたち」

          「DIY」

          村に来てから、色々と自分でやることが増えた。 必要に迫られてやる場合もあるし、自分から興味を持ってやることもある。それにしても、村の人たちは、なにかと身の回りのことを自分でやっている。 普段着のほかに作業着を持っているし、乗用車のほかに軽トラを持っている家は多い。 ちょっとした小屋を建てたり、草を刈ったり、家のメンテナンスをしたりと、みんなよくDIYをしているように思う。わざわざDIYなんていうよりも、ただ自分でやるのが当然と思ってやっているだけかもしれない。 自分でやれば費

          「たくさんの人とモノ」

          自分は、月に2.3回は都心に出る。 今と都心に住んでいた以前では、少し見え方や感じ方に変化を感じることがある。「匂い」も、そういったものの一つで、特にこれからの時期、夕立の後の帰宅ラッシュの電車内などは、様々なにおいが混ざり湿度も高く、なんとも言えない空間になる。 それだからか、電車内には消臭スプレーや、フレグランスなどの匂いに関する商品の広告は多い。 都心に住んでいる人間は特別臭いというわけではないだろうが、 どうしたってあれだけ多くの人間が密集していれば、あまり心地よくな

          「たくさんの人とモノ」

          「サービス」

          自分は意味をしっかりと理解せずに、なんとなく知った風に言葉を使ってしまっていることが多々ある。 言葉だけでなく、様々な場面においてわかったつもりで、実はわかっていないで物事をやり過ごしてしまっていることが多い。 「サービス」という言葉もその一つで、「おもてなし」という言葉のように使ってはいるが、時にその内に少しいびつで何か解せないものを感じ、ふと考えてしまうことがある。 一般的にも、この「サービス」というものを巡っては、コスパ、コンプライアンス、クレーム、などを競ったり

          「サービス」

          「仕事」

          村では、あの人はサラリーマンだというような言い方は、ほとんど聞かない。 仕事の話になると、雇用形態よりも「どこで何をしている人なのか」ということになる。 都心では人の数が桁違いに多く、すれ違う人のほとんどは名前も仕事もわからない。サラリーマンという名称は、なんとなく「背広を着た男性」を指す言葉くらいに使われているように思う。 たまに、村での仕事や活動の手伝いをすると、その仕事の内容やその必要性がわかる。 都心のオフィスビルや工事現場は厳重に囲われ、外の世界と隔絶されている。

          「畑」

          畑をやっているなんて人に言えるほど年季が入っていないし、 勉強もしていない。打率はいつも5割といったところ。 都心から来た友人には「自給自足だね」なんて、冗談交じりに言われるが、 そんなほぼ野生状態に生きるなんて、トイレットペーパー依存症の自分には絶対に無理だと思う。 なぜ自分が畑をやるのかと考えると、きっと自分にとって畑や野良仕事は絵日記のようなもので、 過去の出来事を、その時々の天候とともに思い出すくらいの役割で、 別に、自分の生活になくてはならないものというわけではな