「つまらなさ、不自由さ」

時代が変われば、一つ前の時代の流行は古臭く物珍しさもないものになってしまう。だから、流行に自分を合わせれば、それは常に時限的なものになってしまう。それがファッションというものだろうし、別にそれは悪いことではないだろうけれど、ただすべてをそうしてしまうと、常に刷新していかなくてはいけないから大変だとは思う。
これは雑誌に載っているお洋服を買ってしまうと、来年もまた新しいお洋服を買わないといけないという話でもあるけれど、現在に最適化した状況を作ってしまうと変え続けていかなくてはいけないということでもあって、これはなかなか大変なように思う。

だから、自分はたまに自分が適していると思わなかったり、不自由だと思う状況に自分を当てはめてみることがある。そうすると、徐々に自分が変わっていくことがわかる。また、その過程では拙さを大事にしている。初めて補助なし自転車に乗った5メートルは恐ろしいし、転んだりもするけれど、今では100m先のコンビニに自転車で行くのは簡単なことだ。
つまり、初めて何かに取り組む慣れないときに比べれば慣れて結果が出ている時はずいぶん楽になって、しかも人から評価されたりもする。そうして振りかえれば意外と性にあっていたと思ったり、やっぱり合っていなかったり。ただ、自分に合っていると思う環境にも、たまには少し距離をとって外から眺めて見るということもした方が良いと思う。

また、自分は大なり小なり何かをつくるときは、0ベースで自分の頭で考えたものや他から持ってきたものをそのままつくるのではなく、その環境や背景から見えてきたものを織り込んでつくるようにしているし、そういった物に惹かれる。
すると一見、つまらないありきたりな物を改めて見て理解する必要が出てくる。
見えていない人間は見えていないことに気がつかない。だから、黙ってぼんやりと見えてくるまで見る必要がある。ただ、一度見えたときには完全に見え方が変わることがある。
こうして考えると、人は鋭敏でないから安易に奇をてらうのかと思う。何かを見てつまらないと思うのは、自分の理解や感受性が浅く鈍いからなのではないかとも思う。
だから、すぐに「新しく個性的な物」に走りたがる。
そうやって自分たちは様々な場面で、安易に不自由さやつまらなさをつぶしていって「どっちだって良いこと」を増やして自由になったような気持ちでいるのかと思うこともある。
選択肢というのは、どちらでも良いから存在するのであって、どちらを選ぼうと、結局どちらでも良いのだと思う。
こんな風に考えていたら、自由というのはわがままの範囲を広げることよりも、不自由さやつまらなさを引き受けることの方にその肝要が有るように思う。
だから、これからもつまらないと思うものをたまには見ようと思うし、少しの不自由もそばにおいておきたいと思う。この前、ウーバーイーツがめっちゃ便利だと思ったけど。