「話すこと」
ほんの少し話しただけでも、意気投合して親友のような関係になることもあるのかもしれないけれど、基本的には親しい仲になるまでには、人はある程度の時間が必要だと思う。逆に、もしも大人になってから出会っていたら、絶対に仲良くはならないような幼馴染がいるという人は結構いると思う。
どうでも良いような会話のやりとりを重ねることで、互いの微妙な嗜好や価値観なんかを感じ取り合って、それでも関係が続くようならば、時には意見の相違があったとしても、「それはそれ」ということで、付き合いが続くと思う。だから、どうでも良い会話を重ねることは人間関係において重要だと思う。
自分は、よくテレビで見る口角泡を飛ばすような議論をあまり見る気にならない。それが、議論を通して相手をやり込めようとしたり、恥をかかせようとするようなら、なおのこと見苦しいと感じる。
だから、人と議論をするときは、話の内容は勿論、速度にも気をつけるようにしている。それでも、時に反論を急いてしまうこともある。
逆に互いの関係を考慮するあまり議論にならないこともある。
人は大切なことほど、話し合う必要があるけれど、大切なことほど話し合うことが難しくなるようにも思う。大切にしているものの価値が揺らぐことを好まない。
自分にとっての大切なものだからこそ、人前に出さずに隠したり、少しでも人が異論をはさめばたちどころに攻撃的になったりする。
身近な例だと「伝統」とか「決意」とか「イデオロギー」とかがそうだと思う。だからこそ、そういったものは簡単には揺るがない強さもあって、時に人を幸せにしたり、時に人を不幸にもするのだと思う。
「話し合えること」(場合によっては譲れること)と「話し合えないこと」(絶対に譲れないもの)の間に線引きをするということは、社会の中で生きる上で大事な知恵だと思う。
また、何でも話さなければわからないという人もいる。
もちろん、話すことで互いの理解が深まることは多いけれど、話さないことにも理由があって、理由としては、話したくないか、話せないかのいずれかで、いずれにしても無理強いしたところで、宝箱を無理矢理こじ開けて箱ごと中身を壊してしまう様なことにもなりかねないと思う。だから、時には忠犬のように黙って待つことが言葉よりも深いコミュニケーションになることもあると思う。
それだけに、普段話さない人が、普段話さないような内容を話したときには、自分の意見を脇に置いてでも格別の注意を払って、その話を受け取ったほうが良いように思う。
逆に、この人とはこの話しは出来ないとか、この人とは話を合わせておこうとか、話しても無駄だとかいう風に、人に多くの忖度をされるというのは、ある意味で馬鹿にされているのと変わらないように思う。
「雄弁は銀、沈黙は金」という言葉があったりと、上手く話すことはなかなか難しいと思う。