「誰かたち」
最近、不特定多数の人々のことをあまり考えないように行動している。
不特定多数の人々というのは、「お客様」と言われたり、「人材」と言われたり、一般に向けて使う「みんな」などの顔の見えない「誰かたち」のことだ。
多くの人間を相手にする仕事に携わっていれば、それも必要だろうけれど、今の自分には必要がないように思う。
また、「お客様」といった風に一般名詞で考えることは、様々な側面を持つ人間を都合の良く単純化する面もあるように思う。
そのように、人を立場で括り漂白することは、ロールプレイングを必要とする大きな社会やシステムを回す上では、重要なことだと思う。
しかし、最近は人のことを考えるときは、できるだけ個々の人の顔を思い浮かべながら、余計なことも含めて考えるようにしている。
情報を得る際も、簡潔にまとめられたものではなく、本や映画のように長いものをゆっくりと受け取るようにしている。
ただ、それらも結局は想像でしかない。
そうなると、当たり前だが、自分の感覚や感情に照らすことが、最も誠実で痛切であるということになる。
自分が良いと思わないことを人は本気でやることはないし、自分が良い思うことをしている時に、人はそれ以外の何も求めないように思う。
実際に何かを行うときは、様々な制約はあるけれど、その中でやりたいことを、やりたいようにやって、それを他人がどのように受け取るかは相手に自由に決めてもらえばいいという考えは、言い訳をする必要のない潔い了見のように思う。