「観光」
自分は観光というものにあまり興味がない。
光を観ると書くけれど、谷崎潤一郎ではないが、自分はどちらかというと影の方がその人や町や物の本質や輪郭をはっきりと表すように思う。
宿屋をやっていてもいわゆる観光客というのは、あまり相手にしていない。
観光客のような、不特定多数を相手にすることを想定すれば、どうしたってこちらも個別性を消した一般的な対応になる。
そういったものは大手に任せて、こっちは歪なものを作っていくことにしか興味がない。
逆に、自分がどこかの地へ赴くときも観光案内だとか、パンフレットというものには、あえてほとんど目を通さず、人から聞いた情報と最低限のことはネットで調べるくらいのものだ。
充実したパンフレットやお洒落なホームページから得た情報をもとに、間違えのない答え合わせをしたいのではなく、その土地で起こる再現性のない出会いが、自分にとっては旅の醍醐味のように思う。
数年前に北京に行った時も、50年後に行っても万里の長城は何も変わっていないと思い、行く気が起こらなかった。。
観光地というのは、その地域の特色が薄く、年に一回の祭りや催し物もその土地の日常とは関係がない。だからこそ祭りは意味を持つのだろうと思う。
そして、そういった祭りというのは、その土地の人や神様のためのものだと思っているので、よそ者が行って形だけを真似するのはなんだか気が引ける。それに、様々な土地の神様の基準があるにせよ、肉を食べて、酒を飲んで、嘘をついて、婚前交渉をする自分が、穢れていないと考えるのはなかなか難しいので、基本的には触らぬ神に祟りなしだ。
それよりも、住宅街なんかをふらふらと歩いて、その土地の人の暮らしだとかをぼんやりと見ているのが面白い。
猫の柄や、街路樹の違いを見るのも面白い。沖縄ではバナナの葉が風に揺れてこすれ合う音を聞くのが心地よかった。
その土地で出会った、名前も知らない人の過去の話を聞くことができたら、本当に良い土産になる。
この前の沖縄では、ひょんなことから毎日牛舎で牛の世話をすさせてもらうことになった。
雨で休みの日以外は毎日夜明け前に起きて通った。
牛の世話自体も初めてで興味深かった。聞いて知ってはいたが、牛の繁殖方法は倫理の箍が弱い分、人類よりも先鋭的で驚いたし、牛のお産を手伝った際はなんともハートフルな気になってしまった。
それ以外にも、休憩中に聞くおじさんの話が面白かった。
本土でトラックの運転手をしていたことや、昔は島の洞くつで戦死者の頭蓋骨が転がっていたこと、昔は円をドルに換金して仕送りをしていたなんていう話を聞かせてもらえた。
こういう局所的な出会いや話の方が、意外と全体を理解するのにも役立ったりもする。
南国の楽天的でのんびりとした雰囲気の中に、時より見せるどこか少し寂しげな目は、沖縄という土地を表しているように思えた。