「学校」

今朝は雨で野良仕事ができないし、何と無く機会があって、学校とか不登校について考えてみた。

自分は学校が苦手だった。
ただ、自分は不登校にはならず、小学校から高校まで、ほぼ毎日学校に通っていた。
友達と遊ぶのは楽しかったし、いじめられてもいなかった。
ただ、もし自分の周りの子供が不登校になっても、登校を強制することはとてもできないと思う。
小学校の頃から、なぜ学校に行って勉強をして、テストを受けるのかもよくわからなかったし、
その点数が良かったからといって、嬉しい気持ちにもならなかったし、悪くても残念な気持ちにもならなかった。
このあたり、何かしら欠落しているんだろうな。
別に、テストで良い点を取っても、人の助けにはならないし、悪い点を取っても、誰も困ることはない。

そういえば、高校の担任が、「もし、受験勉強をすることに迷っているんだったら、勉強をしてしまった方が良い」と言っているのを聞いて、その時に、「これが頭を使わないってことなんだ」と思った。

他にも、大学に行けば豊かな人生が送れるし、教養を身に着けられると言っていたけど、
人を蹴落としたその先の豊かさや幸せに興味はなかったし、自分がバカならバカでそれで良いとは、今でも思う。

学校というのは、子供を社会に向けて製品に仕上げて、
それに慣れきった多くの子供たちは、就職活動を通して、自己を商品化するんだと思う。
その市場の中で、高い値がつけられれば喜ぶ。
これは、テストで高い点数を取ると喜んでいたあの子たちと同じ気持ちなんだと思う。
この「評価されることを喜ぶ」というのは、学校教育における重要な側面だと思う。
だから、自分の頭の良さを誇ってみたり、人の頭の悪さをさげすんだり、バカだと思われることを恐れたりするようになるんだと思う。

そんな自分が大学にも行かずに、ふと新聞を読んだときに、
そこに書かれていることがよく分からないことに気付いて、「ああ、自分はバカなんだ」と思った。
それから本を読むことにして、図書館に通って簡単な新書からちょっと難しい本から、興味の赴くままによく読んだ。

そうやって、強制されたり、課題の提出なんかを気にせずに、勉強をしてきたので、学ぶことが嫌いにならずに済んで良かった。

そんな風に気ままに語学を学んだ上で、学校でのカリキュラムを振り返ると、
それは一旦学びを殺して、そのあとに教師に教えやすいように、加工されたものだと思う。
語学を学ぶにあたって、ほとんどの時間を机に向かって参考書と過ごすというのは、かなり奇怪な方法だ。

あと、
高校の体育教師が熱心に短髪や服装の乱れを気にしているのも、わけがわからなかった。
もし、短髪が本当に良いことだと思うなら、女性教師の長髪に対しても指導が必要なわけだし、街行く人々をはじめ、社会に対しても短髪の重要性を説くべきだと思った。
なぜ、自分が教師に対して反発したり、不良にならなかったのかと考えると、
学校の規則や、学校自体が本当に無意味だと思ったからだと思う。
あの体育教師は、自分を囲う檻を丁寧に磨いて整備をして、自分と同じように檻の中で過ごすことを子供たちに進めたり、ときに強いる。
いわゆる不登校の子供たちはその檻の中で過ごすことに対して、普通に居心地の悪さを感じているのだろうと思う。

その檻も看守の大人たちも自分たちを守ってくれずに、体よく扱おうとしてくる今、もう学校はその役目を終えたのかもしれないと思う。

学校しんどいなぁ。。