「継続」
全く自慢ではないけれど、自分は何の心がけもしていないが物によっては、とても物持ちが良い。
今使っている携帯はもう買ってから12年が経つし、ブーツもソールを何度か替えて11年になる。スニーカーですら買ってから6年も経つ。
最初からこんなに長く使う予定もなかったが、結果的にこんなに長く付き合うことになった。
自分がある程度継続しているモノやコトは、それ自体に面白さや、心地よさがあったり、自分なりに納得がいかず結果的に飽きずに長くやっているだけで、継続というのはあくまで始めるときに誓うものではなく、振り返ったときに自分の後ろに横たわっているもののように思う。
意志の強さによって継続を維持するのはなかなか難しくて、何かの大会や試験勉強のような終わりの見えている短期的なものならいいが、何かの行為を終わりない日々の習慣や営みにしていきたいと思ったら、その行為自体が目的になったり、たとえ強い意志がなくても継続できるようにした方が良いように思う。
人の評価を追うもの、何かを続ける際に妨げになることがあるように思う。評価は常に限定された状態のものにしか下されることはないから、いちいち区切りをつける必要が出てくるし、一喜ならいいが、一憂してしまったら、気を取り直すのも面倒になる。(自分は負けず嫌いではなし、反骨心にも縁がないのもあるが。)
あと、ジャッキーチェンの映画の修行のように毎日最大限に頑張って、できるだけの効果を上げ続けるというような姿勢は、一瞬だけ輝いて消える打ち上げ花火のように、かえって物事の終わりを早めてしまう要因になるように思う。
また、「できること」と、それを「続けられること」は全く違っていて、子供のころになぜ自分は掃除はできるのに、祖父母の家のように自分の部屋が常に片付いている状態を保てないのかを不思議に思ったことがある。
問題は「掃除の仕方」ではなく、「掃除をしないで済むようにしておくこと」なんだなと思って子供ながらに納得した思い出がある。
たまに社会問題なんかをぼんやりと考えるときにも「どうしたら問題を解決できるのか」よりも「なぜその問題が発生するのか」の方をより深く考えるようにしている。
付け加えると、解決策や策略を考えるよりも、そういったものが必要になる背景である、自分や社会の愚昧さや、さもしさに目を向ける方がよほど、難しくて勇気がいるように思う。
むしろ、自分や自分たちはそこから目を背けるために終わりなく解決策や策略を考え続けたり、誰かの考案したものを追い続けて、また違う問題を発生させたりしているようにも思う。
大分話がそれてしまったけれど、何かを継続したいと思うならば、まずどうしてそれを続ける必要があるのかを考えて、次にそれがどれだけ、またどのようにそれが「面倒なのか」を丁寧に点検して、その面倒くささを減らしていくように努めた方が、「頑張って続ける」よりも効果的な気がする。