私の学び⑤母の闘病〜母の葬式に出ることを許されなかった父
そして、救急車を待っている間、
父に「もうお母さんも長くないと思うから、
お父さん、もう会えないね」と言ったら
「◯◯子〜 俺が悪かった〜
俺が悪態ついてばっかりで」と
父が顔をくしゃくしゃにして、
大きな声で泣き叫んだのだ
びっくりした
母の耳に届いたと思うが、母は無表情
もう遅いと言っているように見えた
わたしも「もう遅い、何を今更」と思った
そして、お母さんは
もう最期が近いだろうと思った
鹿児島の叔母も含めて、叔母が2人、
泊まり込んでくれた
大好きなお姉さんがこんな姿になって
2人とも辛かっただろう
そして、父が入院した2日後の未明に
母は旅立った
私と、鹿児島の叔母が最期を見送った
お母さんは、最期まで、
立派に生き抜いたよ
頑張ったね ありがとう
私は、死ぬ間際に、
「お母さん、私のこと好きだった?
私が生まれて嬉しかった?」と聞いた
弱りきっていて答えてくれなかった
生前もたくさん褒めてくれて
好きだったと思うけれど、
子どもは何歳になっても、
その確信が欲しいのだ
そして、在宅でお世話になっていた
医者に来てもらって
それから、体をきれいにしてくれる
スタッフさんが来て
朝になって、初めて葬儀会社に電話をして
わからないなりに打ち合わせをした
子どもたちは、小学校に行ってもらって
母の携帯電話にあった連絡先に
電話やメールをしまくり
親戚にも知らせ
挨拶状の文面も考え、
本当によく1人でやったと思う・・・
後日、この挨拶状を読んでくれた友人が、
「お父様からお母様への愛情が
伝わってきます」と
言ってくれたけど、
父は入院していたし、
私が母への愛を込めて作文した
(いても父には書けなかっただろう)
父の魂は、母への尊敬や憧れが
たくさんあったと思うけれど
人間の父は、釣り合わなかったと
思っている私
でも全て私が選んでいるのよね
父という喪主がいない中
私は全然わからないながらも、
やりきった!!!
父は、自分の骨折の前、
母のお葬式は、公民館みたいなところで
家族葬しようと考えていたのだ
母関係の親戚には声をかけないと言っていた
冗談じゃない!!
あんなに社交的で明るくかわいい
人気者のお母さん
花いっぱいのあたたかい会に
したいと思っていた
静岡時代のお友達もかけつけてくださったし
鹿児島からもたくさん来てくださった
私と妹と叔母たちの協力で、
無事母の葬式が終わった
式が終わった後、例の先達さんと話をした時
言われたのは
「お父さんは文字通り自業自得です」
「お父さんの魂が、葬式に出ることを
許さなかったんです」
その後は、父のお見舞い(洗濯物)したり
色々ばたばたと過ぎていった
心の問題はとても大きい