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めはれちゃん😭
おととい、ある出来事があり、
「失敗した〜、なんでもっとうまくできなかったの?」と
自分で自分を責める声が大きいので、
自己共感(自分の感情と大事なものをみつける作業)を
したのですが、それでも残念さや悲しみがおさまらず、
トレーナーの先輩に聴いて(共感して)もらいました。
夜にZoomでつながって1時間、
話して聴いてもらっているうちに
涙がどば〜〜〜〜〜〜〜っ
聴いてくれた彼女は、ホールド力があって
共感力がすごく高くて私の憧れです。
(トレーナーになる過程でもとてもお世話になりました。)
深く聴いてもらえて、すごくありがたくて
失敗と思っている経験を糧にしてまた前に進もう、
「私はよくやっている」と励ましてまた進もう、
気楽さも大事にしながら、と
改めて考えられたありがたい機会でした。
今朝起きると、目の周りが腫れている
・・・ショック
あれだけ泣いたから仕方ないな。
夕方、人に会うまでにはスッキリするといいな。
もう40年も前(小学生の頃)ですが、
母から「めはれ(目腫れ)ちゃん」と
よく言われていました。
泣いた晩の翌朝。目がパンパンで。
「めはれちゃん」という台詞を聞くと、責められている感じがしました。
(理由は聞いてもらえず、寄り添ってももらえず)。
「あんたが泣いたからこんな顔なのよっ」て。
とにかく、泣いてはいけない。
泣く私が悪い。
そんな風に、子どもの頃の私は解釈していたと思います。
いまは、その子に対して「つらかったね、よく頑張ったね」と
声をかけることができます。
親戚で初詣に出かけた時にも泣いていた記憶があります。
何がきっかけか覚えていませんが、
家が安心安全ではなかったので(父の暴言、夫婦喧嘩)
常に、悲しかったから、ちょっとした刺激で泣いていたのかも。
小さい体に、そんな悲しみ、やるせなさを抱えながら
よく生き抜いてきたね、偉かったね、頑張ったねという
愛おしい気持ちでいっぱいです。
小さい頃のたくさんの傷を抱えながら
私たちは生きています。
何かの刺激でそのつらい記憶がたちのぼって、
非合理的な反応(戦う、逃げる、かたまる)をしてしまいます。
おとといは「失敗した」と責めることによって、
苦しい気持ち
昨日は誰かに共感してもらわないと
自分では抱えきれない、あまりにも辛くて悲しいという気持ち
今朝は、目が腫れたことによって、
昔の記憶を思い出してまたじわり涙
日々いろんな感情がうごめきます。
感情の奥には大事なものがあります。
それを聴いてくれる仲間の存在が
とってもとってもありがたいです。
否定されることもなく、ただただ共感を受ける場所を
仲間と作っています。
まだ大人数には届いていないけれど、
それは本当に自分にとって価値もあるし
意味があることだなと改めて思います。
読んでくださりありがとうございます。