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第103夜 荷台のダッチオーブン
イグニッションキーを回すと5リッターのシリンダーが強烈に震える。それもそうだ、大量のガソリンの霧を限界まで圧縮しそこに火花を放つという暴挙を繰り返すのだから。ちゃちな機械じゃあ話にならない。それぞれが分厚く、全て合わさってメガトンになる。全長6mの半分を占める荷台は本来は車内に置きたくない汚物、異臭物、危険物などを搭載するものだが、ニック関本の場合は違った。普段の倍の厚さのある帆布を車高と同じだけフレームで嵩上げして空間を作り風雨から中身を守るようにした。後は旅に必要なものを詰め込む。テント、ターフ、薪、7フィートのフライロッド、そして10インチのダッチオーブンだ。
ダッチオーブンは鋳鉄の鍋。これをブラックポットという愛称で呼ぶ開拓時代の男たちは、使い込んで黒光りするその艶を競った。艶を纏うブラックポットは鋳鉄の微細な穴に染み込んで定着した油分でテフロン加工以上の効果を発揮しこびりつかない最高の友となる。ずっしり重い蓋をすれば鍋内は密閉され肉やら豆やらをぶち込んで焚火に埋め込んでおくと、蒸気が外に漏れることなく素材自らの水分とエキスが溶け込み、仕事が終わる頃にはトロトロのチリビーンズが出来上がっている。これをストレートのバーボンで掻き込むのが過酷な労働後の楽しみなのだ。
ニックは暴れ川の河原へハンドルを切る。数ヶ月前の氾濫で丸太が散乱してはいるが、しばらくは雨の心配はないためあえてここを今夜の野営地とする。適当な枯れ木で小さな焚き火を作るとそのすぐ脇へダッチオーブンを置き、ブロックのベーコンと皮のついたままのじゃがいもを2つ、同じく皮のついたままの玉ねぎを1つ入れ蓋を閉じる。あとは枯れ木をもう少しくべて釣りの準備に取り掛かる。本流は濁濁と早い流れだが、先程渡った支流は川幅5mほどのちょうどいい流れだった。草原をゆったりと水藻をなびかせながら流れるその川は、英国で言うところのチョークストリーム。山岳が面積の大半を占める日本では多くの河川がゴールの海までの短い距離をまるで落下するかのように急で早く流れ切るのだが、丘陵で成る英国は平坦な石灰質(チョーク)の土地をゆっくりと流れる。そのため流されることなく繁茂した水中植物が水生昆虫の住処となり、それを食料とする魚たちには食料と外敵から身を守るシェルターとなるのだ。先程の支流はまさにそれに近かった。
野原の中を緩やかに蛇行する支流は濁たる本流にクリスタルの絵の具を注いだかのように合流している。ニックはその流れをしっかりと見渡す。いや、流れではなくその川面をだ。幼虫から蛹までの期間を水中で育ち、羽化のために外界を目指す羽虫たちが水面を漂いながら蛹殻を割り空へと旅立とうとしている。その動きは魚たちへのわかりやすいサインとなる。藻のジャングルから天空の波紋を目指し口を広げながら魚はロケットのように一直線に突進し捕食する。羽化は適時が来ると一斉に起こる。それは狂喜乱舞のように。一つの波紋を見つけたところで、ニックは車に戻りジュラルミンの筒からロッド(竿)を取り出しリールをセットする。#3の7フィートロッドは日本の支流では使い勝手が良い。ダブルテーパードのラインを軽く折り曲げガイドに通し終えると、ショルダーバッグから黒いアルミのケースを取り出す。30年使い込んだホイットレーのフライ(毛鉤)ボックスだ。書籍のように開けばそこには水生昆虫の標本のようなフライが整然と並ぶ。すべてニックが巻いたものだ。フライはその名の通り蠅などの昆虫を模して巻かれた毛鉤。鳥の羽などを巧みに駆使して羽虫の成虫や幼虫、蛹を模作するのだ。先程の波紋はモンカゲロウへのライズ(捕食)だったのでそれを模した#18のCDCソラックスダンを7Xのティペット(一番先端の毛鉤につながる細い釣り糸)に結ぶ。
川面はまもなく乱舞の前奏が始まる。この流れはさしずめ軽やかなワルツ。太陽が低くなるにつれ弦楽器が小気味よく弾かれたような波紋があちこちで起こる。焦ることなくニックは川幅より少し長めのラインをリールから引き出し、ロッドのコルクグリップを小さな子供と握手するくらいの力で握り、天の後方へとゆっくり振り上げる。ラインは自らの重さで弧を描きながらニックの後方へと展開し、すべてが伸び切ったと思われるタイミングでは団扇でそよ風を起こすような動きでグリップを前方へ倒す。ラインは今度は向きを変えニック前方へと弧を描く。慣性に逆らうことなくそのラインは一直線に川面へと伸びてゆき、先端のフライがゆっくりと着水する。フライはラインなどに拘束されてはいないかのように川面を流れ出した時、波紋ではなく水面の炸裂が起こった。
尺以上のサイズに間違いない。魚はその針から逃れようと水中を走りまくる。果敢に潜ったかと思うと突然跳躍し、力の限り抗う。それは魚にとっては生死を賭けた闘いなのだ。ニックもいつになく手こずったが川から後ずさりするように離れながらそいつを半ば強引に岸に引き上げた。いっときそいつは力尽きたように静かになった。40センチオーバーのブラウントラウトだ。これだけの大きさに育つだけのことはあり、静かになったのもつかの間すぐに草の上で暴れ出した。ニックはその生命力に敬意を払いながら口元から針を外しそっと川に放した。フライフィッシングはあくまで水中の魚といっときだけ出会うゲームと考えているからだ。魚には高温すぎる手のひらをあらかじめ水に浸し水温と同じにしてから魚に触れる。針も通常は外れないために仕込まれているカエシというトゲ状の部分をペンチで潰し、軟骨でできた唇に極力ダメージがないように計らっている。それでも相手は生死を賭け、こちらは殺生のつもりのないゲームをしているという不平等さにはずっとわだかまりを持ち続けてはいるが、この片思いだけは諦めることができないのである。
日の暮れた野営地周辺は熾火にぼんやりと照らされている。ロッドを車に立てかけると、すぐに集めておいた枯れ木から何本かを抜き出して熾火にくべると周囲は一気に明るさを取り戻した。それによりダッチオーブンも姿を表した。黒かった肌は半分が白い灰に浸かり、のぼせたようになっている。でもちょうど上がり時なのがよく分かる。それもそのはず、辺り一帯に芳香が充満しているのだ。川から戻る間、50m手前あたりからこの芳香を感じていた。まずはベーコンの薫香、次に玉ねぎの飴香、そしてじゃがいもの甘香、それらが渾然一体となったところにこの焚き火の煙がこの野営地キッチンの隠香となるのだ。ニックは保冷庫からハイネケンを取り出しプルトップを開け巣の雛鳥のような喉に流し込むと、大きな深呼吸をし革手袋をはめダッジオーブンの蓋に手をかける。10インチの蓋は先程の魚とのやり取りで軽い疲れを帯びた腕にはわずかに重く感じるが、少しだけ持ち上げると隙間から盛大な芳しい湯気が吹き出してくる。蓋の取っ手側を地面に向けて置き、火のついた木で鍋の中を照らすと、アヒージョのように油に浸かった具材たちがすっかりフニャフニャになった姿を見せる。ベーコンは脂身が細り繊維が解かれ、玉ねぎは束が解かれ飴色になり油の一部となり、じゃがいもが飽和量に達するまでそれらの脂とエキスを吸い込みながらも降参したかのように半透明化している。ニックはすかさずふた握りの乾燥ペンネを投げ込み再度蓋をした。ハイネケンを半分ほど飲んだところで、タープ(天幕)の設営だ。野営では支柱ポール一本だけの簡易なものを使う。車には必要なものを好きなだけ乗せることはできるが、家かのような大きなテントにすればするほど周囲の自然から隔絶されていき、この滞在の意味をなさなくなる。コット(簡易ベッド)を組み立て焚き火近くに置けば準備完了だ。
2本目のハイネケンはオーディオスイッチの役目を果たす。すべての動作が停止した状態は周囲への意識を研ぎ澄ますことになる。もっと言えば、弱肉強食の自然界では身を潜めるイコール包囲されると同じことで、侵入者に気を配らなくてはいけないということなのだ、ただ、この辺りは人間を脅かす熊などは出没しないはずなので、気を許して身の回りの自然音を楽しむ。まさにオーディオのスイッチを入れるかのように。焚き火の爆ぜる音、川のせせらぎ、遠くの鳥の鳴き声は最上級の環境音楽なのだ。あっさり2本目のハイネケンが開くと、この先はウイスキーだ。野営ではブラックブッシュミルズ(BB)をストレートで飲るのがいつものパターンだ。唇周辺の筋肉をウエーブさせるように口内の緩んでいる皮膚にくまなくそれを送り込むと、40度のアルコール刺激ですべてが覚醒する。心のヒビに染み込む酒はウイスキーしかない、そう言った作家がいたがまさにそう思う。朦朧、惰性、怠惰、放埒、逃避…、あらゆるネガティブがパテで補間されるかのように無かったことに、感じる。新たな芳香が鼻をくすぐった。炭水化物に火が通った香りだ。炊きたての御飯、焼き立てのパン、茹でたての日本そば、みな独自の香りを持つが、パスタも小麦の芳香をしっかり主張する。案の定、蓋を開けると最初の黒っぽい景色は一転、白いペンネで覆われている。その一つをフォークで刺し一息かけ冷まし口に入れると、まさに小麦が軟化する2歩手前の状態だ。鍋を火から離し、清流でちぎっておいたクレソンをオピネルナイフで1センチほどに刻み、上に散らす。鍋から直接シェラカップで多めに掬うと、盛大な湯気が視界を遮る。
3杯目のBBはプラネタリウム上映のベルの役目を果たす。ランタンを消し、焚火は熾のままにする。すると闇に目が慣れるにつれて上映が始まる。今夜の空は14番目の月と、それを頻繁に見せ隠れさせる雲が際立っている。西風が次から次へと雲を連れてきて、東の空へと送り込んでいく。プラネタリウムというより、むしろスクリーンでの映画上映のようなスピード感に、まずはこちらがどっしりと構えることにし、ニックはコットをタープの外に引き出し、天空の元で仰向けに寝転がる。足先から体の上を通り頭上を経て頭頂部方向に雲は消えていく。次から次へと。そのあいも変わらない動きに次第に同化し、自身の体がベルトコンベアの上におかれたかのような錯覚を覚える。さらに意識が天空に釘付けされるにつれ、移動する雲があたかもスマホ画面のチャットの吹き出しようなものにトランスフォームする。ニックと天空とのチャットが始まる。
<俺はなぜここに居る?>
<・・・>
<なぜここには誰もいない?>
<・・・>
<その雲はどこからやって来てどこへ行く?>
<・・・>
<なぜそんな無駄なことをする?>
<・・・>
<なぜお前は何も答えない?>
<・・・>
<なぜ・・・>
ニックはいつしか眠りに落ちていたようで、ゆっくりと立ち上がると消えかかる熾に残っている枯れ木をくべ、コットをタープの中に入れ焚火に背を向け横になった。
遠くの鳥の鳴き声はしばらく続き、それが止むとせせらぎだけが焚火の番人となった。