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第33夜 逍遥代行

 両親亡き後、家に残り暮らしている。叔母からもらっていた縁談を昨夜断り、芙美子は今リードを手にして宇都宮辻子を歩いている。この大型犬は散歩の代行で預かったもの。動物好きが高じて農獣医学部に入り、卒業してから段葛の動物病院に勤めたが、先月院長の高齢を理由に長年の使命を終え病院が閉じられた。この病院を引き継ぐか打診されたが、芙美子には維持費が重すぎるため辞退し、病院跡地はマンションが計画されることになった。
 15年働いてきた実績は十分なので、芙美子にはもう少し小さな形での開業の道もあるが今は心の整理をしたく、近所の犬たちの散歩代行にとどまっていた。ネットでの案内だけではあったが、それでもコロナ禍が明けてからは毎日数件の注文があり、食い繋ぐことができている。それも両親が家を残してくれたからだ。浄明寺の家は竹林に隣接した50坪ほどの普通の一軒家。小さな庭で母が菜園をやっていたのでそれを継続させ、春には隣から伸びてくる筍をいただいている。
 贅沢を望まなければこの生活はとても平和だ。咳の止まらない老いた老犬や、体毛が抜けて寒々しい子犬たちなどを治療してあげるのはとてもやりがいがあったが、発病の原因が大半は飼育環境にあることを知っているだけに胸が痛んでいた。飼い主の怠惰、無知、養育財力。そんなことに対して医者から指摘はしづらい。だが明らかに負担はこうして犬たちにのしかかるのだ。
 芙美子の散歩は一匹あたり1時間、ほかの代行業者に比べたら時間的にはより十分に行うようにしている。老犬は冬なら快適な陽だまり、夏なら早朝に木陰で一緒に過ごすことに時間をかけ、元気な犬には材木座海岸の砂浜を歩かせた。砂浜は足の指が砂を掴む動きが繰り返されることで、丈夫になるのだ。いつしか代行を依頼する客も、単に不在のためだけでなく、健康管理のために定期的にお願いするようになっていた。
 芙美子が鎌倉市内を歩く際、犬に出会うと犬から挨拶しに近づいてくることが増えた。もちろんその犬は飼い主を通して出会ったわけだが、当の飼い主とはネット上の接触だけで、対面することもなく庭先の犬小屋から犬だけを連れ出し、散歩後にまた戻すケースも多い。そんなことで犬だけが芙美子に懐く状況に始めは飼い主が首を傾げるのだが、こちらから自己紹介すると納得してくれる。いつしか鎌倉では ”犬のおばさん” と呼ばれるようになった。嬉しくなくはないが複雑な気分ではある。私のアイデンティティは何? 40に近づき、伴侶はいない。
 ある早春の朝、庭の畑を耕しほうれん草の種を筋蒔きしていたら、しゃがむ私の背中のシャツがめくれあがって少し出ている肌に何か感触を感じた。固まった腰をゆっくり伸ばし後ろを振り返ると、小さな雑種の和犬がリードも首輪もなく座っている。さすがに犬のおばさんでもまだこの子は知らない。
「あれ?きみはどこから来たの?」
子犬はその声の響きに首をかしげている。
「そらそうよね、わかるはずはないものね。おうちに帰らないとお腹すいちゃうよ」
子犬はそれがご飯に関する内容だとわかったはずはないが舌をぺろぺろさせている。
「あれ?お腹すいてるのね」
そう言って、芙美子は畑作業の合間に食べようと縁側にラップをかけておいたふかし芋を少し折って皮をむいて子犬に差し出した。子犬はにおいをかいでから少しずつ芙美子が手にした芋の端から小さくかじっていく。
「空腹だったんだ。たくさんお食べ。それにしてもどこの子なんだろう? まだ生まれて数日しかたってない感じなのに」
子犬は無心に芋をかじっている。
「飼い主が迎えに来るまで私と一緒にいようね」
芙美子は縁側に座布団をもってきて子犬を乗せた。子犬は空腹が落ち着き、しばらくもぞもぞ横転を繰り返してから吐息を立てながら寝た。
 その日、この犬を探しに来る気配はなかった。翌日もその翌日も…、そして電柱にお尋ねの貼り紙もされることなく一週間が過ぎた。子犬はすっかり芙美子に慣れ、芙美子も情が移り手放したくない感情が強くなっていた。
「私から貼り紙すべきなのかしら? でもこの子がいなくなるのは寂しい…」
突然姿を現す様子が似てるということで、子犬に ”たけのこ” と名付けた。たけのこは豆しばの系統なのか体もそのまま大きくはならず、畑を駆け回ったら大好きな縁側の座布団で寝る毎日、いつの間にかひと月が経っていった。
 芙美子が風邪で寝込んでしまった。散歩代行はお断りせざるを得なかったが、たけのこの食事と排泄は代行がきかない。たけのこは布団から動かない芙美子の枕の脇にずっと伏せしている。
「たけのこ、お腹すいたよね。ごめんね、今立ち上がることができないの。ごめんね…」
 陽は昇っているのにカーテンは開けられることなく、暗い部屋でたけのこはその意味を探るようなしぐさで首をかしげている。芙美子は目も開けていられず、いつしか眠りに引きずり込まれた。
 たけのこは大佛邸脇の砂利の匂いが気になるらしく、ずっとくんくんしている。私は心ゆくまで嗅がせる。匂いは犬にとっての娯楽みたいなものだから。家にいる間は同じ状況に退屈して伏せしている時間が長いだけに、散歩はとても楽しみなイベントなのだ。たけのこは清川病院の手前から小町大路に向かう。気温が上がってきたから木々や家屋の作る日陰が居心地がいいようで、座り込んだりする。気が済むとまた歩き出して次は東勝寺橋で一休み。1時間程歩いて浄明寺の家に戻った。
 何気ない夢だった。が、日常のルーティンをこなした安心感を感じる夢だった。まだ布団から出る気力がないので寝入る前にたけのこがいた枕元を見ると、変わらずそこに居て、ぐっすり寝ている。
「なんだかたけのこに散歩に連れ出されたみたい」
 芙美子の熱は午後には落ち着いてきた。
「たけのこ、ありがとう。明日はお散歩行けるよ」
たけのこは尻尾をぶるんと振ってまた寝た。

 
 






 

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