第35夜 白粉花のしおり
男 君が嫌じゃなければ想い続けてもいい?
女 何故スマホでそんな曖昧な表現で伝えてくるの? 何故さっき顔を合わせているときに直接言ってくれなかったの?
男 それは…
女 ネット検索するみたいに私の気持ちを探るのはやめて!
面川千里はリーディンググラスを外し、眉間を柔らかくほぐす。40年親しんできた台本の文字が、このところ霞んで長くは向き合えなくなってきた。先週届いた台本は昭和の純文学作家による未完の悲恋作品を現代人気作家が加筆リメイクした話題作。時化の日には漁に出れずに愛人である女の家にやって来る漁師との物話を、現代のITエンジニアに置き換え、電力やwifi網のデジタルインフラの障害を待つ設定になった。愛人役を任されはしたが、面川は気乗りはしていない。昭和の巨匠は愛人に雨乞いをさせたが、まさかインフラテロでもさせるのか? 台本の先を追ったら、案の定インフラ障害を計画する話になっていた。
昭和の恋は美しかった。通信は乏しく、ひたすら待ち焦がれるものだった。高揚、焦燥、嫉妬、絶望…、あらゆる感情が付き纏い続ける。それがどうだ、今はあまりに物事がスピーディーに進むため、思い悩む前に白黒がはっきりついてしまう。次に会うまでの間に相手の存在が心の端っこまで充満していく枯渇感など微塵もなく、衝動のままデバイスで表情を確認することができてしまう。
面川は化石化しかねない悲恋の物語を忘れまいと、自身の代表作とも言える30代半ばで演じた作品の台本をもう一度読んでみることにした。紅茶を淹れ、オークのソファサイドテーブルの上に置くと、台本を両手のひらに乗せ表紙をしっかり見直す。ストーリーより先に、当時随一の厳格な撮影現場と言われた坂田組との日々が蘇る。早朝から深夜までのロケがひと月半続いた。私は何度か倒れ、その度に速攻の体力増強手段としてもてはやされていたニンニク注射を打って凌ぎ続けた。それでも恋人役の草薙正雄とは誰にも気づかれないように逢瀬を重ねた。関係者は見ないふりをしてくれていたことをのちに知ったのだが。あの頃は怖いものなどなく、所属事務所に相談もなく髪を切り、普段着は露出の多いものを選んだ。人気役者やアーチストは何をしたってファンはついてきてくれるのでイメージチェンジは怖くない。しかし仕事が減り自信がなくなってくると変化することが怖くなる。あのときの私を好いてくれてたんじゃないかと思うのだ。
台本は読み返されて元の倍くらいの厚さになっている。面川は読むでもなくぱらぱらページをめくると、あるところで手が止まった。そこには押し花が挟んであった。白粉花の真っ赤な花だ。面川はすぐにわかった。草薙との初めてのキスシーンだ。首都高速横浜羽田線で空港脇にさしかかったところで渋滞に遭い、会話が途切れたところで助手席の背もたれに草薙の左腕がかけられ…。こういったシーンに不慣れな私は滑走路に連なった青いライトのことだけを見て草薙に全てを委ねた。
小さいころおままごとをしてる時、近所のひろしくんに可愛いねと言われたことで面川は人生が決まったと思っている。可愛くいたいと母の鏡台に座ることが増え、そこに並んでいる化粧品に憧れた。せめてもと、使うわけでもないが白粉花を見つけると白粉みたいな粉が入っている種を集めた。やがてお化粧をする歳になりファンデーションや口紅やマスカラなどを欲しいままに集めていった。でも道端にあの赤い花を見つけると、つい種をつまんでしまう。
しおりとして挟んだこの白粉花は忘れもしない、いよいよ首都高速へ向かうシーンで車に乗り込む前、街路樹の下に咲いていたもの。緊張する面川にひろしくんの言葉を思い出させてくれるように咲いていた。あの時の嬉しさをこのシーンに込めたい。面川はずっと花を掌で包みながら助手席であの日のおままごとを思い返していた。今、台本のセリフは役者の面川が何一つ間違うことなく喋っている。しかし、素の自分の意識は過去へ向かって行きどうにもならない。“ひろしくんは始めはお父さん役として真似事をしていたけど、いつのまにか無口になり、しばらくして…" いよいよ車は滑走路脇でスピードを落としクライマックスのタイミングがやってきた。草薙の左手がハンドルから離された。面川は車のエンジン音以上に自分の心臓の鼓動が聞こえてしまっているのではないかと一層体に力が入る。そんな緊張を察してか草薙が顔を寄せながら小さな声でアドリブを囁いた。「可愛いよ」あまりのシンクロに体の全ての力が抜け、車内を包む青いライトにシルエットが重なった。
女 スマホなんてなかった小さい頃、あなたはどんなことを夢に描いていたの? 毎晩お布団に入ると明日を思ってわくわくしてたようなこと。
男 どうして?
女 だってそういうのって何の道具もいらずに、幸せな気分になれることでしょ?
男 僕は自由自在に世界の人たちと友だちになれることだったよ。
女 素敵な夢ね。しかもちゃんと叶ってる。
面川は新しい台本はこのページに白粉花を置いた。明日髪を切ろうと思った。