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第81夜 もう一つの砂利道

 まただ。またあの夢だ。奴が出てきて友人のように時を過ごす。それ以上でも以下でもない。嫌なことをするでもされるでもない。つまり嫌な夢ではないからおそらくうなされたりしていないだろう。だが新たなレムの波が来た時なのだろう、私は子供でもないのに三輪車に乗りもどかしく見知らぬ住宅街を進む。知り合いに出くわすが、あちらはまさかこの三輪車乗りが私だとは思ってないためか、気付かずに通り過ぎていく。あまりに先に進めない状況に辟易して三輪車を捨てキックボードに乗り換え目が覚める。あまりの奇天烈さに枕元のスマホで夢判断をするが、事例はなかった。
 土曜の朝だ。昨夜の天気予報は一日中雨だったので何も予定を立てていない。つまりゆっくりと寝ていられるはずなのに夢に起こされた。しかも5時。夢が現実離れしているほど余韻で二度寝することは難しい。布団の中でスマホをいじっていると、ニュースサイトに気になるフレーズが目についた。“なだらかなあなたの砂利道”。言葉としてみると異質な組み合わせにただの書き手の突飛なあざとさを感じたが、何故か既視感がある。いや視覚ではない体験をした記憶がある。そんなものが自身の中にあるのか? でも確かな実感のある言葉だ。私たちはあまりに言葉が規定する概念に縛られ過ぎてしまっている。水ひとつとっても渇きを癒す物質から生活を飲み込む脅威までさまざまな意味を持つ。では砂利道。不安定だが確実に目標方向へ向かっており、数々の往来の末しっかり踏みしめられているのが砂利道。それは比喩として心の中の一つの状態に当てはめることはできるが私の実感とは違う。では何だ?
 私は雨の土曜日を大型モニターの前で冷えた白ワインと共に怠惰に過ごした。活字は一文一句が規定概念の応酬となるので今日だけは離れてみたかった。ボリュームをゼロにし、テロップもオフにし、次から次へと動画を流し続ける。いつしか動きのない古典講座と緩い酔いの作用でうたた寝に落ちるが、再び目を覚ませば新たにビビッドな南国の魚たちが泳ぐ姿が流れている。かれこれ3時間ほどソファに埋もれていたようだ。用を足そうと床に足を下ろした時、映像はドイツのモノクロ写真フォトグラファーをオマージュしたものに変わった。作品はみなオーバー露出で被写体は朧げだがかろうじてわかるようになっているので、見る側それぞれの解釈に任せているようだ。写真が絵画と違うのは例外なく現実世界に存在するものを切り取っていることだ。非現実を描いた絵画を撮影したとしても、それは絵画があるその時を収めたのだ。故に写真は物質の記憶装置で、絵画は意識の表現手段で有りうるが、このフォトグラファーは写真の意識表現に挑んでいるかのようだ。解明されていない意識の成り立ちをフォトグラファーなりに解釈したのがこの未結合感。つまり分子結合過程を表現しているのだ。りんごであるかのような曲輪郭がわずかな陰影で写し出されている。それがりんごであると感じたのは私だけかもしれないが、直感がそう動く。さらにその輪郭に厚みが増したなら直感は確信へと進むはずだ。
 微小な心動、新たな動跡、散らばったものたちが一筋に集約される意識。この埃立つような心の荒涼はまさしく今朝のそれだ。






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