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第91夜 ボブの遺言

 隣のボタンには世界の惨状があることはわかっているので、その二つ隣のを押して朝食の用意を始める。いつもの民放チャンネルでは海老名サービルエリアの人気スイーツを女子大生レポーターが屈託なくコメントしている。もちろんその内容には何の興味もないが、一向に収まる気配のない西の紛争を起きがけに目の当たりにされるのも心の準備が間に合わないのだ。先程明け方に起こされた夢は、ちょっと道草している間に私を置いて先に行ってしまった連れを追いかけるため登山口から歩き出すものだった。待ち構える登山道は出だしからかなり急で、でも躊躇なく踏み出すところで目が覚めた。しばしその内容を反芻した後、枕元で睡眠観察アプリを起動させていたスマホを手に取り夢判断サイトを検索し登山の夢を見つけた。これから登るという夢は状態としては上向きとのことでホッとしたが、その登山道の傾斜が成就への困難さを意味しているとのことだ。濡れ手で泡など求めてはいないので良しとする。そもそも夢は無意識な思考、深層心理の上映会。決してその内容を軽視はしない。
 海老名スイーツの後はカメラがスタジオに戻り、先週起きた群馬の隣人殺人について数人のコメンテーターがアナウンサーに促されるまま順番に持論を述べている。積年の小さな衝突の積み重ねで、これまた小さなすれ違いで爆発したと言うのが大方の共通見解だった。殺人に至るとは余程のことだったのだろうが、恨みの蓄積と増幅は当事者しか持ち得ない。コメントとはあくまで私的な感想であって未来を変える力はないと思っているので聞き流す。
 昨日ベランダのプランターの空芯菜が伸び放題だったので一気に摘んで全て茹でた。もちろんまた茎を伸ばすエンドレス植物なので摘むのは先端部分だけだ。夕飯でおひたしとして食べたが、摘んだ量が相当だったので持ち越したものを朝食のサンドウィッチに挟んだら、その粘り気が意外にもマヨネーズに合うことを知る。そしてアナウンサーの解説から殺害された初老の男性は元中学の校長だったことを知る。アナウンサーによれば元校長は生徒からはボブという愛称で慕われていたとのことだ。
若い頃伸ばしていたクセ毛がボブ マーリーのようだったかららしいが、実際本人もファンだったのではないかと思う。というのもブルーシートで覆われた元校長の自宅のベランダに掛けられた、おそらく手すりを拭くのであろう雑巾は初老の使うようなものではなく、使い込まれ色褪せてはいるが明らかにラスタカラーなのだ。
 赤,黄,緑、黒からなるラスタカラーはエチオピアの国旗の色。血、太陽,大地、そして肌。こんなにもシンプルだがメッセージがストレートに突き刺さる表現も稀だ。ジャマイカのボブマーリーはアフリカ回帰を説くラスタファリを信仰しこのラスタカラーを愛した。ボブの歌うラスタファリは“アイアンドアイ”。ユーアンドアイではなくユーはアイ、つまり一心同体を意味し、uniteし皆が手を取り合う世界へ向かおうというものだ。殺害された元校長もボブの説くラスタファリに傾倒したとしたら隣人を愛したはずだ。心を寄せ時には博愛めいた話もしていたことあろう。しかし、無理もないことだが隣人はラスタファリではかった。そして元校長ほど隣人の生活は平穏ではなかったのだ。続くアナウンサーの解説では元校長のノートにはこうあったという。

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被ったもののみが感じる圧迫からの脱出感情
他を踏み台にすることなく共に抜け出す
先にある地は全てが穏やかな笑みで充満している事を信じて戦う
戦いとは脱出を阻むものへの抵抗なのだから

        ***

 息苦しくなるほどの圧迫要因は個々人によって違う。押し潰され悲壮感漂う者もいれば逃げ回る者もいる、だが落ち着いて見える者ほど抵抗への気力を使い果たし、息の根を止められ衰弱している現れであったりする。元校長はもしかしたら後者で、それでも心の中は立派な戦士であったのかもしれない。周囲の圧迫を取り除くべくONELOVEを唱えたが、隣人はそれへの感受性は持ちえず元校長の愛を受け取ることができないまま事に及んだのではないだろうか。
 惨状から逃れられない朝、久しぶりにボブを流してみた。

精神的な隷属から自分を解き放とう
自分の精神を自由にできるのは
自分自身だけなのだから
  Bob Marley 『Redemption Songs』



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