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第93夜 ふたりのエントロピー
黄色の鉄瓶が湯気を吐く。この鉄瓶は40代の頃ふたりで旅したフランスで購入した。当時あちらでは日本文化がもてはやされ、この様な茶道具だけでなく畳や着物生地までフランス風の解釈を入れて盛んに取り入れられた。鉄瓶といえば黒、そして使い込まれたのちの錆色が真っ先に浮かぶが、そんな固定観念は異文化の人々には持ち合わせられていない。丸いフォルムの鉄瓶は黄色く塗られ硬質で重い印象はかなぐり捨てられた。欧米化された日本解釈の浸透したキッチンにはこの黄色はむしろ自然な風景となった。鉄瓶の湯気は盛大なものとなり蓋を押し上げ始めカチカチ音を立てたことで紗栄子は慌ててIHヒーターへ急いだ。
「紗栄子、お湯は80℃で止めなくちゃ」
夫の指摘はもっともだ。鎌倉珈琲香房のご主人は80℃で20秒だけ蒸らす事を強調していた。ではどうやって80℃を察知するか? それは鉄瓶の特性である六音を聞き分けることだ。魚眼、蚯音、岸波、遠波、松風、 無音。感覚的な名称だが何となく分かる。80℃は松風だ、と思っている。
「沸騰へ向かうお湯と、冷め始めのお湯と何か違うのかしら?」
「白湯かどうかじゃない?」
「白湯?」
「一度沸騰させて40度くらいまで冷ましたのを言うんだよ。沸騰前に40度まで温まったものは、ただのお湯。お風呂はお湯だね。沸騰させると塩素やトリハロメタンが除去される」
「じゃあ浄水器の水ならお湯でもいいわけね」
「そういうことになるね」
先程の鉄瓶からコーヒー豆に頃合いの白湯を注ぎ20秒数える。味わうには手を掛けることが必要、紗栄子はこんな些細なことからそれを学んだ。
紗栄子の仕事が忙しくなって半年が経った。リモートワークにしようがないフリーのエクステリアコーディネーターという仕事は現地に赴き周囲の景観や陽の動きなどを実際に見ないと始まらないし、知名度が上がるにつれクライアントは全国各地に広がったため家に居ないことが格段に増えた。たまに居る時でも空いた時間は全てPCに向き合う状態、それも深夜まで。生活時間もずれることで夫との会話は減り、それを補うべく移動時のLINEが欠かせなくなった。
[明日から新潟。2件実地打ち合わせをやるので2日間居ません]
[了解。置き配でタイルの見本みたいなのがたくさん届いてたから玄関の中に入れておいた]
[サンキュ]
LINEは便利だ。大半は即時レスを期待しないので思いついた時に打ち込んでおけばいい。それだけでなく写真や動画、リンクなどを備忘録として自分へメモ送信したりとフル稼働だ。それはライフログでもある。自分の行動、思考の推移がしっかりと残ることで、スマホという小さな板の中に自分の人生が構築されていく、意図せずに時とともに形を成していくということ。大半のものは時とともに風化崩壊し、温かかったお湯は冷め、逆戻りはしない。それは物理的に不可避な熱力学第二法則で言うところのエントロピーの増大のことだ。物質はそうして分解し熱を失っていくが、概念は維持される。
[1月22日は広島の仕事が入っちゃったので今年は日をずらそ]
結婚記念日は10年間毎年その日に食事をしてきた。初めてのデートで奮発した時のお店にずっと。それは曜日に関係なくその日に行くのはお決まりだった。定休日に重なったある年、お店のご主人から夏頃に連絡があり二人のためにお店を開けると言ってくれた。その日は私たちだけのためにメニューにはないコースを出してくれた。
[そうか…、ご主人には俺から連絡しておく]
[本当にごめん]
少し経ってから届いたLINEにはこうあった。
[ご主人、持病の関節痛が進んだそうで来年の1月末でお店閉めるそうだ]
[そうなの…]
並々と水をたたえたプール。前回ここを視察した夏にはその水量の豊富さにガーデンの植栽やサンシェードなどデザインのイメージはどんどん膨らんだ。だが秋風が吹く頃栓が抜かれ、多くの想い出が溶け込んだ水は止めようのない勢いで外へと散っていった。目の前の空のプールには過去が並々と充満しているが、降り出した雨が底を叩いても過去は元へは戻らない。
[来月お休み作るから温泉でも行かない?]
さすがに疲れ切ったので仕事から少しでも離れたかった。しかし夫から返事は来ない。既読マークもつかない。昨日遅く帰った時は先に寝ていたじゃない…。
[修善寺とかがいいかなあ]
1時間待っても既読もつかない。私が起きた時にはもう出掛けてたじゃない。
[いないの?]
そんなことを打ったって見ていなかったら意味のないことは知っているが、レスを促すために何かを打ち込まないではいられなかった。
[具合でも悪いの?]
[返事してよ]
[なんでもいいから]
画面の右側にばかりコメントが並ぶ異常さに気づきこれ以上打ち込むのはやめた。
その日レスはなかった。
群馬の出張から戻ると夫は家で過ごした形跡はあったが、LINEもメモもなかった。黄色の鉄瓶はいつもの場所に置かれ、コーヒードリッパーが水切りカゴに伏せられている。紗栄子は鉄瓶に水を入れ、まだ乾き切ってないドリッパーにペーパーをセットし豆を入れてからコンロに鉄瓶を乗せ火を着けた。微かな音がたちそれは次第に質を変え注口から湯気がで始めたころ、大きな輸送トラックが家の前に来たようで鉄瓶の音はかき消された。耳を寄せ松風の音を待っていると玄関のチャイムが鳴り、一旦火を止める。自分宛のタイルのサンプルが届いたのだが、着払いで差し出した1万円札のお釣りが足りずドライバーは車に取りに行く。このついでに前に預かったサンプルを返したいと戻ってきたドライバーに告げると、またも車に取りに行く。玄関の床で送り状に住所を書き、トラックが去るまでいつになく時間がかかった。
鉄瓶の湯はすっかり冷めている。ドリッパーの豆も先程のような芳香は発していない。飲む気の失せた紗栄子は用意していたカップに浄水器から水を注ぎ、それを持ってソファへ向かった。熱くも冷たくもない水は何の抵抗もなく喉の奥へと消えていった。