第25夜 かぐや姫のガゼボ
月は採掘場になった。月のレアムーンがあっさりとエネルギー問題を解決し、石油利権者たちが隠蔽し続けてきた新たな扉がついに数百年ぶりに開かれたのだ。レゴリウム。核融合の材料として重水素とレゴリウム1gで石油8トン分のエネルギーが取り出せる。つまり少なくともこの先数千年は地球でのエネルギーを賄うことができるというエネルギー大転換の救世主なのだ。
この採掘プロジェクトを指揮したのは日本の女性。国連月域資源担当長、鈴鹿佐江。愛称かぐや姫だ。佐江は親から与えられた絵本の中で竹取物語ばかりを来る日も来る日も眺めていた子だった。やがて大学で地球惑星学の理学博士号を取るとアルファプライズ財団の後押しでプロジェクトを立ち上げた。月の採掘場は整然と開発され計画的に採掘できるようになったため、指揮をした佐江は国連に招かれ世界的なキーパーソンとなっていた。
鎌倉山の自宅のガゼボ(壁のない東屋)から黄色い満月が見える。そのすぐそばに太陽光を受けて輝く人工衛星が見える。天空のパースペクティブにより大きさや距離感は普通の人には実感できないが、佐江にはリアルに映る。仕事場である目の前の月と衛星をこうしてこのガゼボから見るのは、激務の中の安らぎではあったが、今はこの眺めも秋の緩やかな夜風も心地いい物と感じることはできなかった。佐江は夫の星彦にため息交じりに嘆く。
「月の行き来が増えるほどに安全性が上がって今や航空機並みの安全性とされているけど、それは移動手段として安全なだけのことで、月に向かう移動中の環境については話は全然別なの。ああして月面への行き来は容易になったけど、地球上の新大陸に行くのとは訳が違う。月を海洋の未開島と勘違いしていたのよね。大気圏を抜けて、いわばビオトープの外に行くのだから、あらゆる想定外にさらされるの。暗黒森林なんて例えた作家さんがいたけど、まさにそう。どこからどんなことがやってくるのか想像もつかない中その森を歩き続けるのだから」
「あの衛星は高度3万キロの静止軌道にあるわけだけど月までは地球から38万4400Km、やっぱり月は遠いよね」
「テクノロジーで距離の問題は解決したけど暗黒森林状態はまだまだ全然手付かずと言えるわ。そんな状態のまま地球というビオトープに外からタフな分子を持ち込んじゃって、今さらだけど本当に大丈夫なのかな? 彗星衝突なんかもビオトープ外の物質ではあるけどそれはは放置されるけど、持ち込んだ資源は分解使用するから細分化されちゃっている。その分拡散が早い。いつの間にか地球上全体に存在することになっていく。レゴリウムは莫大なエネルギーを取り出せるからオゾン層破壊を止める画期的な資源となったけど、それに頼りっきりで地球上がすべてそれになってしまった時に、ツケがやってくることはないのかな?」
半年後の現地立ち会いで佐江は採掘場にしばらく滞在することにした。規定では2週間を上限とされているが目一杯いて森林の異変を探ってみようと思ったのだ。上限滞在は珍しいことではないが、皆口々に居心地の悪さを漏らしていた。青い地球は絶景だが、あの瑞々しさと正反対の月面にいることに強烈な不安感が襲って来るのだと。そうなってからはすぐにでも地球に帰りたくなり、苦行に変わるのだ。例に漏れず佐江もガゼボからの安寧とは真逆の感情を持つに至った。
佐江は5歳の時に家族旅行した上海で迷子になったことを思い出した。バンドという愛称の外灘(ワイタン)の夜景スポットで、父の手を離した途端人並みに押されて遠くに引き離された。植え込みの脇でしばらく泣いていると次から次へと大人がやってきて話しかけるが、どの人も聞いたことのない言葉で、どんどん怖くなっていった。しゃがんだままそこから動かなかったのがよかったのだろう、やがて両親が探し当ててくれた。永久にはぐれるわけではないだろうが、その間の例えようのない不安。それがフラッシュバックしてきた。わからない言語、それはここ月面においては何? 自分の他にも地球からの人間はここにいるにもかかわらず孤独感が押し寄せる。急に周囲が暗黒の森林と化す。音も風も無いが気配だけが自分を襲う。後ろを何度も振り返る。どうしようもない恐怖でしゃがみ込む。
やがて不安は薄らいでいった。親と再会した時の父親の抱擁の温かさを思い出したからだ。それは地上を離れた月面でも感じることができる。それは思うことで叶う。思うとはその時点でそれがなされたことなのだ。肉体同士が接触しなくていい。思い続けてみるとわかる。愛する人との抱擁を思ってみるといい。心がいつしか満たされ温まるのがわかるはず。地球を出たら身体という物質に執着してはいけない。自分は一素粒子と思い、広大な宇宙空間にたゆたわなくてはいけない。そう、今は仮初の姿なのだと…。やはりここ月面は私たちの居場所ではない。地球というビオトープで守られた私たちはいてはいけない場所だ。やはり私は地球に帰ります。