日本はすごいと言いながらも、なぜ海外に憧れるのか
私は海外に住みたいと思っている。それ自体に特に理由はない。住んだことがない人生より、住んだことがある人生のほうが知識や経験が増えて楽しいと思っている。
昔は機会があれば住みたいとか、海外を飛び回って自分の意思と関係なく仕事でいろんな国に派遣されるくらいのレベルの人間になりたいと思っていた。
海外志向が強くなったのは、高校から大学にかけてだったと思う。
私のころは高校の授業料も払っていたし、大学の授業料が高いことに不満があった。そして基本的に大学は勉強するために行くものではないという日本の文化も知っていたし、世界大学ランキングのようなものでアジア1位だった日本の地位がどんどん下がっていったのも目の当たりにしていた。
学生の頃のわたしは受験勉強じゃない勉強というものを体験したことがなかった。普通に理科とか社会の勉強は楽しかったし、数学もわからない問題が解けたり考えるのが好きだったが、時間内に問題が解けないとテストで0点になるので、その定期テストのプレッシャーが嫌いだった。
海外には受験がない国があるという噂も聞いていたので、彼らがどういうモチベーションで勉強に取り組んで、どういう人生を良しとしているのかが気になった。
日本のGDPが世界3位などと言うが、4位のドイツは日曜には店を閉めて誰も働いていないし、キャバクラも無ければサービス残業どころか有給の残業さえあり得ない。そんな国と正確に比べられるのだろうか、とも思ったりしてしまう。
こういう海外との比較をすると、生まれた国をバカにするな。とか、日本を捨てたとか戦時中のような事を言う人もいる。そういう人は海外諸国から様々なことを命がけで学んで今の日本があるという歴史を知らないんだろうかとも思ってしまう。
子供や友達にダメなことをダメだと言わず見逃してあげるのは本当の優しさなんだろうか。私は絶対に違うと思う。
日本だけが優秀であるような、そういう思想を持って情報を閉ざして「日本国万歳!」と言い始めたら、もうそれは北朝鮮と何ら変わらない。ヤバい国である。
バブルでアメリカさえ凌駕する勢いがあった日本が、その後30年成長しなくなったのは、私は確実にその傲りにあると思う。そしてそれを私は本気で解決したいと思っているし、そのツケをなすりつけられて非常に憤っている。
それがなんとなくわかってきた頃には、海外に出たくてたまらなくなった。単純な海外への好奇心もあるし、自分たちの下の世代には虚勢の日本でなく、本当に誇りを持って日本が素晴らしいと言える国になってほしい。
日本人は謙虚で他者をリスペクトする能力が世界に誇れる最大の武器であることに違いない。それを自ら失うことは日本人が日本人たる価値を失うことを意味する。それを今の子供たちにも知ってほしい。
そんな思いから始まった海外への興味だが、調べているうちに政治だったり経済や文化まで幅広く情報を知るようになった。
そして調べてわかることだけじゃなく、やっぱり実際に行って住んでみないとわからないこともある。ということもわかった。
政府への信頼感が異常に低いせいで、日本は現行制度が変えられないという状況がだいぶ続いている。
この前、母親の年金関係の書類を見ても、何が何の種類の年金なのか全くわからないし、なんでその支給額になるのかわからないし、電話で年金機構の職員に聞いても、電話じゃ教えられませんと言われ、電車で1時間かかるのに事務所まで来てください。と言われる始末である。自分がもらう年金を自分で把握できないという悲惨な状況だった。
やたら変な書類ばかり一方的に送ってきて、このコストがオンラインになって年金機構の職員を10分の1にしたら、年金がかなり増えるんじゃないかとさえ思ったりしてしまう。
コミュニケーションが下手なのに、コミュニケーションを取らないといけない構造になっているのもまた納得できず不満である。
それでも先進国だから年金があるし、ある程度の事を言ったら思い通りになる安心感もある。不満を言えばきりがないが、他国の良いところを真似して、自国の強みを伸ばすことを続けていくべきだと思う。
不満が出るということは、ある意味、それが実現可能性がある期待が込められている。そういう意味で日本はクレーマーが多い。それはクレームを言えば、そのとおりになる可能性が高い社会だからである。
買い物でクレームを言って喧嘩になって殺される社会なら誰もクレームを言わないし、電車で寝たら身ぐるみ剥がされる社会であれば、誰も電車で寝ない。サービス残業を強要したら、上司が全員ブタ箱行きなら、誰もやらない。
他人に期待しない社会なら自分で生き抜く力が向上するだろうし、他人を頼れるなら社会全体のサービスが向上すると思う。
その感覚が自分のライフスタイルに合うかどうかということだと思う。
日本というのは日本という共同体意識が非常に強い。ヨーロッパなんか人が入り混じっているし、ドイツからイギリスに移住したくらいで、「お前は祖国を捨てるのか!」などと言う人はいない。
他国に留学するのも当たり前である。スイス人がドイツのスーパーに買い物へ行くのは実際によくあることだし、両親の出身が子供の出生地と違うのも何も特別なことではないし、ハーフとかクォーターとか遡るのが面倒になるほど複雑だし、ただ親がその地で出産して、その地で育っただけである。
それが良いことか悪いことかは個人の価値観によるだろうが、日本では絶対に経験できないことである。私はそれを経験したことがないので、経験したことがない人間よりは経験したことがある人間のほうが人生が有意義だと思う。よって海外に住みたい。ということである。
この先の日本がどうなるかわからない。だが、どうなっても良いように色々な知識を備えている人を確保する必要がある。日本に住んでいる人がみな同じ考えで皆同じ遺伝子を持っていたら、何かトラブルがあったときに一気に全滅する。そのリスクに備えて保険は必要である。
治安が良いとか、道が綺麗とか、自動販売機が置いてあっても誰も壊さないとか、財布落としても交番に届けられるとか、正直そういうのはどうでもいい。
道がきれいな場所は日本以外にもあるし、自動販売機もあるところにはある。治安はこれから貧困が増えれば日本が今後も安全を保てるのか微妙なところである。
学校の先生が残業代で年収1000万を超えるくらい働いているのに、労働法度外視で働かされているような現状などを見過ごされて、クレームばかり入れられる社会になるなら、オリンピックで電通に大盤振る舞いした税金を未来の子供の教育費に使ってあげれば良かったんじゃないかとも思ってしまう。
経済を勉強してわかることは、まずお金と物価の関係である。
詳細を省くが、私は経済を学んで思ったことは、「人間の価値」より「貨幣やサービスの価値」が上回ってしまったんじゃないかと危惧するようになった。サービスを生む価値と人間の価値はイコールではなくなってきている。
日本において「労働する人の人生」というのは価値に含まれないもので、価値が認められるのはその人の人権や人間性ではなく、その人が生み出すサービスやクレームに応えられる事である。
要するに、どれだけ人の言いなりになって身を削れるか。ということである。
今の中国は過去の日本のように働き過ぎになっているらしいが、今の日本は働き方改革がうまく機能せずに賃金と仕事の質だけが下がって、また大変な状況になりそうではある。
大げさな言い方になるが、私は人権を日本に取り戻したい。
嫌な仕事を断れないとか、仕事を辞めたい時に辞められないとか、何年も働いているバイトにボーナスが出ないとか、そういう人権を無視したような考え方を変えることが何らかのヒントになる気がする。日本はなぜか当然のように人間の価値が低いのである。
そこが日本と海外の最大の違いであるような感覚になっている。ハードワークすることが日本の強みであり、逆に言えば弱みでもある。ハードワークすれば、それが当たり前の基準になり、こいつここまで出来るのかと思われて社会からの要望はさらにエスカレートする。
要望に応えれば応えるほど、こいつは言えば何でもやる奴だと思われて、安いコストで壊れるまで使い捨てられる。
それでは有能な人間は育たないし、そんな仕事場は何の魅力もないし、その仕事場で満足する上司も無能である。それが当たり前の世代から見たら、あれ?と思うかもしれないが、仕事は自分で打ち込むものであって、人にコントロールされるものではない。
社員は家族だ。と言えていた頃が羨ましい。私個人の考えとしては、本当に家族であるべきだと思う。この人は、家に帰ったら子供の世話をしないといけないとか、奥さん妊娠してるから早く家に返してあげないといけないとか、家買ったばかりだから転勤させるのは良くないとか、当たり前の気遣いを家族同然にやるべきだと思う。
反抗期の子供のように「ジャンプ買ってこいよババア!SQジャンプじゃねぇよ!週刊に決まってんだろ!そんなこともわかんねぇのか!」とか大の大人がそのレベルの事を言ってるのは、人として恥ずかしい。家族同然とはそういうことではない。
コロナを経て、日本は転換期に入る。損益分岐点のようなものだろうか。
このようなことは10年前にも言われていただろうし、20年前にも言われていたと思う。ただなんとなくアフターコロナがラストチャンスな気がする。
日本で人間の価値が下がり続ければ、価値が高い場所に移動するのは当然のことだと思う。人は自分を認めて欲しいからである。別に祖国を捨てるとかそういうことではなく、途上国のように単純に生きる為である。
治安が良く、仕事もあり、教育が満足でなくても最低限のお金もある日本は、簡単には死なない。
「人間が生きることの価値」は当たり前のものになってしまい、それが真剣に考慮されることがなくなった。
この私の疑念や仮説を検証するには、それらが当たり前ではない環境に身を置くほかない。